「Don’t Follow the Wind」Non-Visitor Center展

knockeye2015-10-24

Don’t Follow the Wind: 展覧会公式カタログ2015

Don’t Follow the Wind: 展覧会公式カタログ2015

 「Don't Follow the Wind」展の「ノン・ビジターセンター展」を観てきた。
 「Don't Follow the Wind」という展覧会は、2012年の年末に、Chim↑Pomに発案されたあと、さまざまな紆余曲折をへて、2015年の3月11日に、東京電力福島第一原子力発電所の帰還困難区域のどこかで始まった、艾未未Chim↑Pomグランギニョル未来、ニコラス・ハーシュ&ホルヘ・オテロ=パイロス、小泉明郎エヴァフランコ・マッテス、宮永愛子、アーメット・ユーグ、トレヴァー・パグレン、タリン・サイモン、竹川宣彰、竹内公太の12名のアーチストによる展覧会だ。
 今、ワタリウム美術館で開催されている、その「ノン・ビジターセンター展」は、放射能に汚染されて、立ち入ることができない「Don't Follow the Wind」への、ビジターセンターならぬノン・ビジターセンターとして、「Don't Follow the Wind」に、実際に人が鑑賞に訪ねられるまで、随時、各所で開催される展覧会のその皮切りであるらしい。
 「Don't Follow the Wind」と「ノン・ビジターセンター」の関係は、椹木野衣の定義では、1960年代のアメリカで、アースワークを初めて提唱した、ロバート・スミッソンてふ人が、美術館の外に、美術品として保護されない場所に作品を展示した、その際に、環境に晒され環境と不可分になってゆく、作品のその状況を「サイト」と名付けたに対して、美術館での展開を「ノン・サイト」と呼んでいた、その、「サイト」にあたるのが「Don't Follow the Wind」であり、「ノン・ビジターセンター」は「ノン・サイト」にあたる。
 したがって、「ノン・ビジターセンター」では、作品はもちろん、作品の写真すら観ることができない。もちろん、この「したがって」には、いくらか論理の飛躍はあるだろう。おそらく、今までのアースワークやランドアートは、美術館で写真や設計図が紹介されもしただろう。だが、それは、その作品が、美術館の外であっても、観にゆくことが可能だったからだろう。敢えて観にゆけない場所に「サイト」を選んだからには、「ノン・サイト」でも観られるべきではないとした判断は正しいと思う。
 ノン・ビジター展に訪れる鑑賞者は、ビジターとして観に行けない展覧会を、観に行けないノン・ビジターとして、観ないことによって成立させる。
 ふたたび、したがって、ロバート・スミッソンのいう「サイト」が、今回の場合、観にゆけない場であることが、「ノン・サイト」の展示を本質的にしている。
 しかし、ここでもうひとつ提起される問題は、福島の現実とこれがどう関わりがあるのか、という点だろう。展示された作品が、福島の現実とどうリンクしていくのか。
 もちろん、放射能汚染地域に放置されているかぎり、それらの作品が帰還困難区域の環境と一体化していくのは間違いない。だが、それが、そこに朽ち果てていく廃虚と、どう違うのかは、別の問題になってくるだろう。
 図録の対談で卯城竜太が言っているとおり、そこに、当事者とは何か?という問題がでてくる。東京電力福島第一原子力発電所の事故について、はたして誰が当事者なのか?。そこには、単に、放射能に汚染されて入れない場所ではなく、そこが福島であることの特異性が必ずつきまとう。
 今回の参加アーティストで、そういう問題をいちばん鋭く感知しているのは、竹内公太であるように思う。この人は、2011年の夏に、東京電力福島第一原子力発電所の屋上のライブカメラに向かって指を差し続けた、通称「指差し作業員」の代理人だが、「Don't Follow the Wind」が、資金繰りに行き詰まり、Chim↑Pomエリィがある人からファンデーションの約束を取り付けてきたときに、「それなら自分は降りる」と言ったそうなのだ。それどころか、(ここは、この対談中で、けっこう笑えるところなんだけれど)それまでは、「Don't Follow the Wind」のミーティング中ずっと、ICレコーダーでみんなの会話を録音していたそうなのだ。何か失言があれば、リークしてやろうと思っていた。
 この攻撃性はまさしくアーチストのモノだと思うが、それよりも、この時、竹内公太が他の参加アーチストに対して持っていたものこそ、当事者意識だろう。
 だが、その時、卯城竜太に「竹内くんが辞めたら、本末転倒だから」と言われて、腹が決まったそうだ。その時から、録音もやめた。
 美術館でない場所のもうひとつの特徴は、その場が、美術作品を受け入れるとは限らないということでもあるだろう。美術館が作品を拒絶する場合は、それが展示されないだけだろう。しかし、美術館以外の「サイト」が作品を拒絶する場合、作品は展示される。ただ、拒絶もろとも展示される。
 「サイト」に作品を展示することで、作品も環境の影響を受けるに違いないが、作品もまた、環境を侵害する。その拒絶と受容のありようが「サイト」そのものであるだろう。
 わたしたちは、それを観ることができないが、作品の側では、観られないことで芸術性を獲得する。もし、反感を持つ誰かが、粉々に破壊したとしても、盗みさられて、更地しか残っていなかったとしても、その作品性は変わらない。
 すでに始まった以上終わらない。しかし、それは、原発事故の腹立たしいカリカチュアでもあり、社会に刺さった抜けないトゲでもあるだろう。