『ムーンナイト・ダイバー』

knockeye2016-02-07

ムーンナイト・ダイバー

ムーンナイト・ダイバー

 天童荒太の『ムーンナイト・ダイバー』を読みました。
 ストーリーテリングの巧さについて言う前に、小説的であることが、現実に対してどう有効なのかを思い知らされる。
 たとえば、主人公の相棒で漁師の文さんって人がいるんだけど、立ち入り禁止になっている福島の海に潜るっていう、突飛なような、無謀のような、あるいはひどく英雄的なような、こういう計画を現実的に感じさせる存在としてすごく重要。あの人がいないと観念的になってしまったと思う。
 また、たとえば、「透子」っていう、すっごいいい女が出てくるんだけど、これが映画には絶対まねできない文章の力で、実在のどんないい女よりいい女が頭に浮かんで迫ってくるわけ。単に、扇情的なんじゃなく、もちろん、彩りとかじゃなく、津波の傷跡を残す、夜の海の底との対比として重要なんだけど、それがそういう生々しいいい女であることが小説的なんだし、その問いかけが観念的にならないポイントなんだと思う。
 依頼人の「珠井さん」の実直さもすごくいいし。
 あとは、読んでください。誰か映画化するかもな。12月のダイビングの件なんて、書けないし書かないけど、映像化の誘惑に満ちている。
 あとは読んでください。
 それで、このところ、ずっと考えていたのだけれど、ドイツ人の哲学が抽象的だとすれば、フランスやイタリアやイギリスやに比べて、文化が遅れているという思いがあったからじゃないかな。
 何かを考えるとき、抽象し一般化するのは、それを理解することで、再生産し、あわよくば凌駕したいという思いがあるからだろう。
 考えるとき、抽象化する必要があるか、あるいは、そもそも理解する必要があるか。ゲルマン民族云々の妄想はどこから生まれてきたのかを考えてみるのは、日本でも「靖国」なんて明治初期にでっち上げた宗教を「伝統」なんて言い募る一方で、本当の日本の伝統は踏みにじって顧みない、不思議なねじれを心中に抱えているらしい「右翼」というあの連中について、なんであんなことになっているのか、考えてみる助けになるかなと思うからなんだけど。
 ナショナリズムにどう対処するかというのは、怯えてやたらと噛み付く犬をどう宥めるかという問題で、国家を人間の上位に置く国家主義者が、その国がどこであろうと、民主的であるはずがない。
 それを、日本の国家主義者を批難する一方で、韓国の国家主義者を持ち上げるという滑稽、しかも、嘘の記事まで書いて持ち上げる。それが、朝日新聞慰安婦報道だった。そのねじれは、じつは、先進国に対するコンプレックスの裏返しで、韓国を憐れむべき存在として見ているからこそ、そのねじれが生まれたはずなのだ。
 右と左で争っているが、彼らが争いあっているのは、人権意識ではなく、エリート意識をめぐる争いにすぎない。しかも、このねじれた国でのエリート意識にすぎない。そのねじれに絡まれたままの議論は、一面、正論に見えようとも、この国の現実に対して有効になることはない。
 そうしたねじれた現実を包括的に捉えるには、小説的であることは有効なのかもなと思っている。