「殿、利息でござる」

knockeye2016-05-14

 中村義洋っていう映画監督は、「ジャージのふたり」とか、「ポテチ」とか、「ジェネラル・ルージュの凱旋」とか、コメディーのセンスが上質。それに、「アヒルと鴨のコインロッカー」もそうだけど、ちょっと映画化できないんじゃないかという感じの原作をシナリオにするのが上手い。
 今回の「殿、利息でござる」が、良い出来なのかどうかはともかくとして、羽生結弦なんかをキャスティングするあたり、やっぱり、腕がいいと思う。なので、お金を出して観に来る観客に、ひどい出来のものを放り出したりはしないので、そこは安心してよい、もし観に行くならね。
 この映画は、東北の東日本放送中村義洋監督が、震災後5年頃をめどに映画を作りましょうと言っていたことから始まったそうなのだ。別の企画が進んでいたところ、中村義洋がこの原作に惚れ込んで、この映画が実現したそうだ。
 東日本大震災のとき、私は今と同じく神奈川にいた。1995年の阪神淡路大震災のときは兵庫県にいて、こんなひどい地震は、あと100年や200年は起きないだろうと思っていたので、驚いたというより、何かはぐらかされた思いがした。阪神淡路大震災オウム事件と重なったこともあり、一つの時代の区切りだと思っていたのは、私だけではなかったと思う。
 ところが、あれからわずか15年で、あれをはるかに凌ぐ大震災が起こり、それから5年で、ことしは熊本と大分で阪神淡路と同等の地震。八万戸くらいの家が住めなくなっているそうだ。今、書いてみて、ホントか?と思って検索してみたが、ホントみたい。八万戸が損壊している。
 ということは、私たちはシナリオを書き直す必要に迫られていないか?。阪神淡路大震災の時、中島らもが、「砂をつかんで立ち上がれ」と書いたのだけれど、私たちの実際は、泥の中を這いずりまわっている。
 東日本大震災から5年というタイミングで、何故この映画なのかは、個人的には、フォーカスがきちんと合うわけではないけれど、ある集団が存続をゆるがす重大な危機から回復してゆく過程の、重要な1段階として、災厄や禍事が美談に回収されてゆく、リバランスみたいな力は、どうしようもなく働くんじゃないかと、この映画を観ていて思った。
 「殿、利息でござる」は実話らしいが、でも、そもそも、藩が負担して当然のカネを藩に払わせたに過ぎない。「意識高い系」であれば言いたいこともあるだろう。しかし、ことの善し悪しはともかく、災いを美談に収束させてゆく、ちょっと強引とも言える大衆の力というより、化学反応みたいなものが確かにあって、それは、ナショナリズムとも互酬社会とも違って、それよりもっと原始的で、それよりはるかに強力な、大衆の波動のようなものが、集団の災厄を美談に回収してゆくのではないかと思った。
 右だ、左だという、本当にそんなものが日本の現実に即して、存在したことがあったのかさえ怪しげながら、何かしら当人は知的な気分に浸れるらしい、近年の議論は、それはそれで、どうぞご勝手にお続けいただければよいのだけれど、ただ、当人どうしは真剣な議論のつもりでも、人にひびかない、人を動かさない議論であるなら、それはやっぱり見世物にすぎない。
 そういった見世物でない思想が日本に存在したことがあったかと考えると、まず思いつくのは鎌倉仏教であるが、この映画が、とりあえず、陽明学あたりまで遡ってみているのは、中村義洋のセンスなんだと思う。まあ、よいか悪いかはわからないけれど、とにかく、虚を突かれはした。