『憲法の無意識』

knockeye2016-08-05

憲法の無意識 (岩波新書)

憲法の無意識 (岩波新書)

 柄谷行人の『憲法の無意識』。
 「世の中が右傾化している」なんて言い草が何とはなしにまかりとおって、そのうちに、「言うまでもなく、世の中が右傾化している」ことになっている、そういうマスコミの論調には違和感を感じている。
 この意見は「右」、この意見は「左」、こいつは「左」、こいつは「右」、っていう認識のあり方からは、おそらく自由な思索が排除されるだろうし、そうした心的態度からは、感情的な対立しか生まれない。
 そういう不毛な結果しか生まないと分かったうえでなお、セクト意識を煽る報道しかできない態度は知的怠慢というしかない。以前、大前研一がマスコミを評した「大衆扇動の高見の見物」という言葉が今もそのまま当てはまるについて、無力感を感ぜずにおれない。
 もうひとつの問題点は、「右か左か」というその内容のあやふやな視点は、それが少なくとも具体的に内容があった米ソ冷戦時代に議論のレンジを狭めてしまうことである、時間的にも空間的にも。
 つまり、現在の状況でも憲法9条はそのままでいいのかという、ごくまじめな議論も、日本会議の、明治憲法を復活させようといったカルト的主張も、同列に「改憲勢力」とひとくくりにして平気でいる、とてもまともとは思えない報道姿勢がどこから来るのかといえば、その議論のレンジの狭さからだろう。
 佐藤優で予習していたために、交換様式のあり方から、柄谷行人マルクスがあえて国家をカッコに入れた『資本論』を、そのカッコをはずして読み直している、その意味も分かりやすかったかもしれない。
 しかし、この本がわかりやすいのは、やはり、柄谷行人の分析が深く広範囲で、そして正確だからだろう。憲法9条は贈与である、といった、他ではあまりお目にかからない言説も、読者も(つまり私だが)、言葉にはできないものの、どこかでそう感じている部分があるからだろう。
 フロイト第一次世界大戦のあと、戦争後遺症の患者から、単に後遺症ではなく、ショックを克服しようとする、快感原則や現実原則より根源的なものを発見して、それを「反復強迫」と名付けた。
 フロイトはたぶん我々の同時代人なのだろう。あるいは、同時代人の始祖かもしれない。前期のフロイトが考えていた、戦争についての意見は、今聞くとむしろ陳腐に聞こえる。人の本質は欲望にあり、文明はその抑圧にすぎない、だから、時に戦争が起こるのはやむをえないものの、その後には常態を回復するといったような。
 第一次世界大戦の戦争後遺症の患者を診て、フロイトはそうした二元論を放棄する。そして「超自我」という概念を用いて、人間の文明的な側面について思索することになる。
 柄谷行人は、このフロイトの「超自我」が、カントがフランス革命後、ナポレオン戦争前に書いた「永遠平和のために」と交差すると、指摘している。
 現実の患者に接して人間を観ていたフロイトと、希望的で楽観的な理想主義にすぎないと思われていたカントの平和論が、接続する点を見つけるのが柄谷行人のすごさなんだろうと思う。
 フロイトマルクス、ダーウインの三者は、その追随者がエセ科学を量産するに尽きせぬ源泉となっている。書物をどう読むかは、読者の自由だが、だからこそそこにその人の創造性がかかってくる。
 新書で量も少なく読みやすいので、お盆休みにでも読んでみてはいかがかと思う。kindleでも出ている。私はなりゆきでヨドバシカメラ電子書籍で読んだ。