平和憲法と北朝鮮

 先月にも書いたけど、このブログでは、ずっと、北朝鮮と和解すべきだし、和解したもん勝ちだと書いてきた。
『見渡せば北朝鮮でなく日本が孤立』
 南北朝鮮が終戦に向けて動き出し、今は状況が変わったので、それはもうよいのだけれど、ここでは、平和憲法北朝鮮をめぐる状況について考えたい。
 北朝鮮と和解すべきだと主張してきた根拠については、先月の記事からリンクをたどって覗いてみていただくこともできるが、しかし、細かな利害はともかく、日本は憲法9条で国際紛争を解決する手段として戦争を放棄しているのだから、最終的な着地点として和解以外にないのだし、これからそのように生きていきますってのが、平和憲法の本質だったはずだった。
 「憲法9条を世界遺産に」とかいう人はいるんだが、具体的な紛争を前にすると、無策で手をこまねいてしまうのは、結局のところ、右翼も左翼も、自分の頭で外交関係を考えることなく、平和も戦争もすべてアメリカに丸投げしてきたのが、平和憲法ってものの実態だってことをまざまざと見せつけていると思う。
 今回の北朝鮮の核をめぐる対応でも、トランプが北朝鮮を攻撃するのではないかと期待しているような意見も散見した。一例を挙げれば、週刊文春飯島勲の連載なんかだが。そうでなくとも、積極的に和解を求めないなら、その人たちは一体何を期待していたというのだろうか。
 平和は具体的な行動なしで実現するはずがないのに、「憲法9条を世界遺産に」なんてことは、「ニッポン、ヨイクニ、エライクニ」の変奏にすぎないと言えないだろうか。
 護憲派改憲派の違いが、戦争をアメリカに丸投げするか、アメリカの戦争に協力するかの違いにすぎないなら、そこに外交政策が存在する余地はないが、集団的自衛権などという、あたりまえの権利を持つことさえ忌み嫌って、そんなことをしたらアメリカの戦争に巻き込まれるぞなどと批判するのを聞くと、むしろ、日本には独自の外交策など存在さえしないという前提で罵り合っているように聞こえる。
 これも以前に書いたことだが、もし集団的自衛権を持つことでアメリカの戦争に巻き込まれるほど自主的な外交政策がないなら、集団的自衛権がなくとも、アメリカの言いなりなはずなのだから、集団的自衛権を容認するしないにさしたる違いはないはずなのである。
 北朝鮮と和解するチャンスは、小泉政権時代にすでにあった。それは、北朝鮮の立場で言えば、金正日の時代にすでにあったということなのだが、アメリカ追随の外交政策がそれを阻んだのであれば、平和憲法は、外交政策の怠惰という結果を招いているだけだと言えないだろうか。
 日本の平和憲法が、実質的には、アメリカに防衛を丸投げしているにすぎないってことは、唯一の被爆国でありながら、核兵器禁止条約に不参加という選択をしたことで、もはや世界中にバレてしまっている。
 平和憲法が、日本の平和への取り組みを後退させているパラドクスが見えてしまう。その意味で、平和憲法固執することがリベラルとは言えないはずなんだが、この国の対立軸は、すべてどこかずれている。
 それにしても、この間、日本の国会が取り組んできたのが、森友問題と加計問題とは。日本の国会議員と官僚の意識の低さに驚かされる。