「ブルックリン」

knockeye2016-09-04

 「ブルックリン」は、最近、点の辛い芝山幹郎さんが星を4つ付けてた映画。たぶんポスターのイメージで損をしている。古典的な風格に気圧されたのか、なんとも控え目なポスターで、観おわったあとはなるほどってなるけど、まだ観てない人にはインパクトがないと思う。
 ジョン・クローリー監督についてはよく知らないが、脚本のニック・ホーンビーは、リース・ウィザースプーンが主演した「わたしに会うまでの1600キロ」でも脚本を書いた、本職は小説家としてむしろ名が通っているようだ。
 原作は、コルム・トビーンの同名の小説。コルム・トビーンの小説は、ブッカー賞の最終選考に何度も残っているそう。
 「ブルックリン」という地名の持つニュアンスがちょっとわかりにくいと思うことがある。「ニューヨーク眺めのいい部屋売ります」で、アレックスという老画家(モーガン・フリーマン)が、ルースという奥さん(ダイアン・キートン)を「ブルックリンの娘」と呼ぶのが印象的だったが、「ブルックリンの娘」は、「下町っ子」とかそういう感じにとればいいんだろうか?。こっちで言えば、「川向こう」とか「ハマっ子」、「アマの子」とか?。でも、たぶん全員に「イッショにすんな!」と突っ込まれそう。
 しかしながら、そうした土地のイメージは確かにあって、そこにちょとしたスタンダードをおいた生き方ってのはなにかしらなつかしい。たとえば、19世紀ころなら、「江戸っ子の風上にも置けねえ」とか言われたら、グサッときたんでしょう。今ではギャグだけど。
 この主人公、エイリシュは、アイルランドからブルックリンへ職を求めて移住する。1950年代だけど、これもやはり昨日おとといの記事と同じく、二つの祖国についての物語だ。演じているシアーシャ・ローナンは、「グランド・ブダペスト・ホテル」で頬にアザのあったあの子です。
 「キャロル」のルーニー・マーラみたくデパートの売り子をしています。でも、女子寮みたいなとこに住んでる。寮母さんがいて、まかない付き。アパートとかいう感じじゃなく、古いお屋敷の空いている部屋を貸し部屋にしているという感じ。こういう素人下宿は、夏目漱石の「こころ」の舞台もそうだし、過渡期にある都市の建築再利用なんだが、それ自体が近代の背景であったようにも思えてくる。
 持家信仰とそれにともなう乱開発が、都市を破壊したように思えてくる。その是非はともかくってことですけど、ロングアイランドにイタリア移民のカレシと訪ねるシーンはやっぱり希望を感じさせるから。いつの世にも若者の希望は物語の特権を持っている。
 そういう若者の希望の物語に、「元はインディアンの土地だ」とか「黒人の役者が1人も出てない」とか、そう言うことを言うのは良くないということを、なんとなくでなく、ちゃんと論理化できる座標というか、大げさに言えば、思想はこれから重要になるかもしれない。
 一言でいえば「野暮」ってことなんだが、「野暮」は思想の言葉だと思われていない。だが、本当にそうか?。戦争なんて「野暮」なことやめようよって言い方が、ちゃんと受け入れられたら、戦争は避けられた気がする。「愛国」だの「特攻」だの野暮の極みだったにはちがいない。
 ドーナル・グリーソンが、また、出ている。このひと、最近、映画館で出くわしすぎ。「アバウト・タイム」に始まって、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」、「レヴェナント」、「エクス・マキナ」ですよ。見逃したけど「フランク」にも出てたそう。
 「CLASSY」を読んでたら、今年のデニムは、ハイライズらしいね。この映画の男優陣が履いてる、ハイライズで、ルーズで、少しテーパードになった裾をアンクル丈でダブルにしてるパンツは、この時代には普通だと思うけど、カッコいいと思う。ドーナル・グリーソンが手紙を受け取った時のサスペンダー姿は、この秋マネしたい。日本でいうと「野良犬」の時の三船一郎っすね。