「ドリーム」

knockeye2017-10-10

 「ドリーム」は、振り返るとここに描かれている差別に実感がわかない。
 有人宇宙飛行を成功させようかという時代に、白人と非白人でトイレが別々だった話なんて、ギャグとしか思えないし、この映画でもコミカルに描かれている。アメリカ人も、もうこれは笑えるってことなんだろう。
 現実の世界では、白人警官が黒人を撃ち殺したり、「黒人の命だって大切だ」運動の主導者ダレン・シールズが撃たれて車ごと焼かれたり、KKKの指導者フランク・アンコナの遺体が川底に沈んでいたりする。非白人の非アメリカ人としては、どんな風に驚いたらいいのかさえわからない。
 黒人女性の昇進をなかなか認めない管理職の白人女性が
「私は偏見はないのだけれど・・・」と言い訳するのにたいして
「I know you are trying to believe that.」
って言う。差別はそれを被る側にとってはそこにある事実だから、気持ちの問題なんて「知らねえよ」ってことなんだろう。
 若いころは過去の戦争や差別について、同じ日本人として後ろめたく重苦しい思いでいたものだったが、ある時ふと、私自身どころか父ですら子供だった頃の戦争について悩んでいるのは、じつのところ、ゆがんだ自意識過剰にすぎないのに気付いた。世界に事実として差別がごろごろ転がっているのに、まだ世界に踏み出してもいない子供のこころのうちなんか知るかよ。
 その種の「ナイーヴさ」は、厳然たる事実としてあるこの世の差別の解決には、何の貢献もしないだけでなく、どちらかというと、問題の核心をはぐらかして解決の道すじをミスリードするようだ。たとえば「フェミニズム」と言われた言動には、かなりの割合でそんな「ナイーヴさ」を主成分とするものが混じりこんでいたように思う。
 この映画はマーゴット・リー・シェタリーのノンフィクション小説『Hidden Figures』を原作としている。キャサリン・ジョンソン、ドロシー・ヴォーン、メアリー・ジャクソンのあまり知られていなかった業績に光を当てた功績は大きい。すべての人に偏りなく光を当てることができれば、そもそも差別は存在しない。すべての人が実力で評価されることに不平があるなら、その不平はとりもなおさず差別感情だろう。差別のない世界はグローバリズムに直結する。
 トランプ大統領のアメリカがTPPから脱退したことはその意味で合理的だ。「差別主義的」だから「保護主義的」なのである。これに対して、日本国内で「TPP反対」を主張していた人たちは矛盾している(でなければ彼らは差別を隠していることになるだろう)。「TPP反対」と言っていた「気持ち」はわかる。しかし、それはTPPそれ自体の問題ではなく、その周辺の問題、手当の問題だったはずだ。
 これは「平和憲法」についても「共謀罪」についてもほぼ同じことがいえる。平和そのものを議論しなければならないのであって、「平和憲法」の議論はその部分にすぎない。「共謀罪」はそれを行使する警察権力にどうくびきをかけるかが喫緊の問題のはずだった。「ナイーヴさ」が議論をミスリードするってのはこんなことなんだろう。
 この映画の成功は、タラジ・P・ヘンソンジャネール・モネイオクタヴィア・スペンサー の主演3人の魅力によるところが大きい。「ゴーストバスターズ3」の時も書いたけど、日本でも最近、コメディエンヌの活躍が目立っているが、映画となると、男も女もとにかく美形を使っときゃいいやみたいなキャスティングばかりで、作品によってはどう考えてもミスキャストだったりする。