『グリーンブック』と『ブラック・クランズマン』

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 『グリーンブック』は、今月のはじめに観ていたのだけれど、これがアカデミー作品賞を獲った時に、『ブラック・クランズマン』のスパイク・リー監督が、思わず席を立って会場を出ようとしたという話を聞いて、何か書くなら、『ブラック・クランズマン』を観てからにした方がいいのかなと思ったわけだった。ちなみに『ブラック・クランズマン』で、スパイク・リー監督はアカデミー脚色賞を獲得している。
 『ブラック・クランズマン』ではなく『グリーンブック』の方がアカデミー作品賞を獲得したのは分かる気がする。その理由は『グリーンブック』は差別を描いていないからだ。ピアニストとして成功したアフリカンアメリカンがあえて南部を演奏旅行でめぐる、そのドライバー兼ボディガードとしてイタリア移民を雇うという話は、いかにも差別の問題を扱っているように見えるし、観客もそのように身構えて映画館に足を運ぶだろう。
 しかし、この映画はそんな観客の足元をみごとにすくって、極上のコメディーで笑わせてくれる。深刻ぶって差別について語るのもいいかもしれない。しかし、それ以上に、よくできたコメディーで笑えた方がよくないかってことだろう。
 『グリーンブック』のピーター・ファレリー監督は、来日したとき開口一番「『万引き家族』最高!」と叫んだとか、ネットニュースになっていたが、半分は外交辞令だとしても、この監督の資質をあらわしてもいるんだと思う。小津安二郎監督もリアルタイムでは、社会性がないと批判されていたそうである。しかし、小津安二郎の映画は今でも古びていない。私は、去年、『晩春』『麦秋』『東京物語』のいわゆる「紀子3部作」を初めて観たのだけれど、声高な反戦映画よりはるかに強いメッセージを持っていると感じた。ピーター・ファレリー監督はどちらかというとそういう志向の人であるらしい。

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 スパイク・リー監督の『ブラック・クランズマン』もまたよくできたコメディである。しかもどちらも実話に基づいている。ある警察署史上初の黒人警察官である男ロン(ジョン・デビッド・ワシントン)が、KKKに電話をかけて、ほとんどうっかり潜入捜査を始めてしまう。もちろん、黒人がKKKに入れるわけはないので、実際に潜入するのは身代わりの白人警官フリップ(アダム・ドライバー)なんだが、彼はユダヤ人で、実は黒人同様にユダヤ人も排撃するKKKにそれがばれそうになる。
 黒人とユダヤ人で演じられるこの「とりかへばや物語」がグロテスクに黒人と白人の分断を暴いていく。その手並みは、さすがにスパイク・リー監督らしく、KKKの入信式と黒人学生の集会の様子が同時進行的に、交互に描かれるところなどは、ブライアン・デパルマ監督の『アンタッチャブル』やエイゼンシュタイン監督の『戦艦ポチョムキン』のいわゆるモンタージュのシーンを念頭に置いているとさえ思える。KKKの入信式を明り取りの窓からロンがのぞいているその画角などは『史上最大の作戦』で教会の尖塔にパラシュートがひっかかったスティー上等兵の視点を意識しているのかなとか。考えすぎかもしれないけれど、そんなことを考えさせる。スパイク・リー監督の最高傑作という評価があるのもわかる。
 この映画がアカデミー作品賞を獲れなかったとき、思わず席を立ったスパイク・リー監督の自負はそれは自己過信ではないと思う。アカデミー賞は、所詮、ハリウッドの力学バランスに左右されるコップの中の嵐に過ぎないとしても、それでも、この『ブラック・クランズマン』が無冠に終わらずによかったと思う。
 この映画のKKKの幹部デビッド・デュークの現在の姿が映し出されたときは、さすがに背筋に何かが這いあがった。『グリーンブック』も『ブラック・クランズマン』も甲乙つけがたいけれど、これらの映画が将来どう評価されていくのかということを考えると、空恐ろしいような気がした。ちなみに『ブラック・クランズマン』の冒頭に引用されているのは『風と共に去りぬ』、KKKが入信式のあとに観ていた映画はD・W・グリフィス監督の『国民の創生』という映画だそうである。
 多くの日本人が絶対そうだと思うのだけれど、私も黒人差別ってことがピンと来ない。いつかの年末のダウンタウンの番組で、浜ちゃんが顔を黒塗りをしたってことでひと騒ぎあったときも、その番組を作ってる日本人、観ている日本人、の誰も、黒人差別ってことを意識すらしていなかったと思うのだ。
 そもそも、浜ちゃんがエディー・マーフィーの真似をする、衣装は同じ、顔も黒いけど、全然かっこよくない、で初めて笑いになるのであって、エディー・マーフィーから浜ちゃんに落ちる落差の大きさがあの笑いの本質だから、そこに黒人差別はありえない。
 そこに差別意識もないとわかってるのに、とにかく黒塗りはダメみたいなことがアメリカの黒人差別の実態なんだとなると、ふだん黒人に接しない日本人として、それは、うどんやそばを食べる時はすすって食べてもいいけど、パスタのときはダメというのと、大して違わないんだな、と思うのが自然だし、アメリカの黒人差別って、大げさに騒いでいるけど、そのていどのことなんだなと思って何が間違いなのか、正直分からなくなる。

 黒人を差別する日本人なんているかね?。脚は長いし、顔はちっさいし、ロックもジャズもブルースもアメリカの文化といいながら、じつのところ、黒人の文化なんだし、はっきり言って、黒人を差別する日本人より、日本人を差別する黒人の方が多いと思う。違うだろうか。

 差別について、日本人の立ち位置はおそらく世界に唯一無二かもしれない。西欧社会にあってはまぎれもなく被差別側だが、アジアにあっては差別側のベンチにいた。だから、少なくとも戦後の私たち日本人は、差別について、両義的であるだけに鋭敏であるといえるかもしれない。たとえば、鯨の問題にしても、慰安婦の問題にしても、私たちはそこに、表立って言われている大義名分とは別に、日本人に対する差別が幾分か、あるいは多分に、混じっていると感づいている。
 その逆も、もちろん言えるだろう。在特会などという団体が、在日外国人に特権があるなどと吹聴して回っても、多くの人は鼻で笑うだけなのである。実際、カウンターデモの方がヘイトデモよりはるかに規模が大きくヘイトデモを押しつぶしてしまう。
 差別が社会を分断するというとき、私が頭に描くのは、たとえばコショーの瓶だ。コショーには白い粒と黒い粒がある。さて、コショー粒の入った瓶を人と国の関係にたとえようとするとどうなるだろうか。国家主義者はコショーの瓶を国に、その中のコショー粒を人にたとえる。民主主義者はコショーの瓶を人にたとえ、そのなかのコショー粒を国にたとえる。たとえば、私でいえば、私という瓶の中に、日本という粒も、仏教徒という粒も、男性という粒も入っている。その逆ではない。もし、白人という瓶があってそのなかに白人がはいっていて、黒人という瓶には黒人が入っているというのであれば、社会は分断するしかない。それは間違いだと思う。
 『グリーンブック』は差別を描いてはいないのだけれど、人を描いている。その人の中に差別という粒も入っているというだけ。であれば、差別は社会を分断しない。人はそもそも孤独なのに、かりそめの帰属意識に自己をゆだねて、それを「正義」とか「great」とか呼んでいるのは滑稽だと思う。