『ボストン・ストロング』

 ジェイク・ギレンホールは『ノクターナル・アニマルズ』も『雨の日は会えない、晴れた日は君を思う』も良かったけれど、今回の『ボストン・ストロング』はさらに良い。彼ならではの繊細な役だった。
 ちなみに『ボストン・ストロング』は邦題で、原題は「STRONGER」、「ボストン・ストロング」という言葉はボストンマラソンを標的にした爆弾テロから、立ち直ろうという思いで、事件直後から掲げられるようになっていた、標語とかハッシュタグみたいなもので、主人公が退院して自宅に向かう歩道橋の上からそのサインをうち振って歓迎する人たちもいたし、彼の部屋に届く激励の品のなかにもそう書かれたものであふれている。
 しかし、その標語に主人公は戸惑っているように見える。彼が爆弾テロの被害者というだけでなく、犯人の顔を覚えていたことで迅速な逮捕ができたからなのだが、突然、ヒーロー扱いされるようになったとき、当然そうなるだろうという一般的な反応を超えて、そのあたりからだんだんと主人公個人の内面にシフトしていくシナリオは、よく練られていると思った。
 まだ、記憶に新しい実話なわけだから、ややもすれば、派手な事件を時系列に並べていくありきたりな英雄譚になりがちなところを、母親との関係とか、ひっついたり離れたりを繰り返している恋人との関係といった日常に、事件がどんな具合に変化をもたらしたかという事情を丹念に追っていくことに、むしろ、このシナリオのキモがあると、映画自体が確信犯的に語っているかのようだった。
 主人公を襲う、事件のフラッシュバックの入れ方もすごくうまい。爆弾で足を吹き飛ばされた彼を救おうとする人たちに、おそらく半分無意識に「俺にかまうな、誰か他のやつを助けてやれ(go help other one)!」と繰り返して叫んでいる、その心理が、だんだんと、いたいほど分かってくる。
 やや過干渉のきらいのある母親と二人暮らし、彼自身、母親に逆らえない自分をふがいなく思っているが、かといってそこから抜け出せない。こういうのを、ここに書いたような説明的な文章でなく、映画で見せるにはどうすればよいと思いますか?。そこのところがこの映画は、ジェイク・ギレンホールももちろん、シナリオ、演出、すべてが見事だった。
 意識が朦朧とする中で「go help other one」と叫んでいる、主人公の自己否定の絶望的な深さが、テロの悲惨さ以上に悲惨であり、この映画はむしろ、そこにこそ共感している。こういうことを説明的な描写のひとつもなく描ききっているという点と、家族との関係、恋人との関係、そして、遠景に戦争の影がはっきりと見えるということも含めて、小津安二郎の『晩春』や『麦秋』と比較したくなる。
 それから、この映画を魅力的にしているもうひとつの要素は、ボストンという町にあるだろう。ジョニー・デップ主演の『ブラック・スキャンダル』はボストンのアイリッシュ・マフィアを描いた映画だった。マット・デイモンとロビン・ウイリアムスの『グッドウィル・ハンティング』にもボストンレッドソックスの試合が出てくる。ケイシー・アフレックの『マンチェスター・バイ・ザ・シー』も主人公が今住んでいるのはボストンだし、友人や兄弟の関係が濃密な町だという印象がある。この映画もそういう映画と肩を並べる名作と言えるのではないか。
 冒頭、主人公が仕事でミスをして、残業を言い渡されそうになるとき、それを断る理由が、レッドソックスが2連敗しているから云々。そして、それを聞いた上司も同僚も、渋々ながらも「じゃ、しょうがないか」ってなる。
 レッドソックスのファンは、日本の阪神ファンと比較されることもある。そういうことには、よい点も悪い点もあるだろうが、大事なのは、そのよいところも悪いところも、映画に描かれていることだ。古い町なんだろうと思う。人とのつながりに、窒息しそうになりながら、時には、それに助けられて、結局、すがりあって生きている。対テロについてもそうであったように、ここでも「ボストン礼讃」「つながろう」とかじゃない。
 爆弾テロのような非日常的な事件が、古い日常の断面を、一瞬切り取って見せる。そういうピンポイントにきちんと焦点を合わせているよい映画だった。