しりあがり寿 月と劣化 ゆる和 2

 月をモチーフにした水墨画はほぼ仙がい(崖の山がない字)。でも、仙がいそのものではなくその解釈なんだと思う。「わび さび ゆる だめ」っていうコンセプトも、《「ウサギは疲れました」》って板絵も、抱一がわざと銀やけした月を描いたように、伝統の解釈なんだと思う。

 伊勢丹新宿本館っていう、ふだん行かないところだと思ったら画廊で、絵のタイトルの下に価格も書かれている。月の水墨画のシリーズは軒並み7万円くらい。色のあるもので大きいのはその10倍くらいしたけど、雛屏風よりやや小ぶりなくらいの屏風は3万円くらい。一瞬買おうかなと思ったくらいだけど、性格がコレクターじゃないんでしょうな、失くしたり汚したりしたらまずいなと思って辞めました。

 マンガっていう巨大なマーケットから、自然にいつのまにか、アートのマーケットにはみ出してきている感じが楽しい。

 言うまでもなく、マンガも絵なんだけど、マンガやアニメのファンにはそういう鑑賞を拒む傾向があるのではないか。鑑賞の仕方が図式化されていて、表現であるより指標になってしまっている。

 アニメにとっての絵は、ストーリーを伝える手段、アニメファンの間でだけ流通している隠語みたいなものなのだろうか?。だとすれば、絵というより字なんで、読みやすいプリント体が一番ってことになる。結果として、ゴジラサイボーグ009も同じ絵ってことになる。もしそうなら、アニメの存在意義は、実写にするより予算が安いだけのことだ。

 そういう文脈からは表現がはみ出してしまう人がいて当然だろう。しりあがり寿の場合、その感じが自然でよい。言い換えると、「あたしマンガ家ですけどアートもやるんですよ、すごいでしょ」って感じじゃないわけ。

 もちろん、そういうマンガ家は見たことがないけど。というのは、さっき言ったように、マンガのマーケットは巨大なんで、将来性のないアートのマーケットに色目を使う必要がない。

 そんなことをするのはユーチューバーくらい。彼らの価値は表現じゃなくて話題性だから。でも、横浜トリエンナーレなんか見てると、ユーチューバークラスな気もする。

 絵を描く人にとって、巨大なマーケットを持つマンガがあるのに、その形式が、ファインアートの方にフィードバックしてこない方がおかしいと思う。しりあがり寿もそうだし、横山祐一とか、会田誠とか。村上隆もそうなのかもしれない。でも、村上隆は、アニメファンから叩かれるでしょ?。そうだ。あのバッシングを見てたから、アニメファンに不信感を持ってるんだな。ロイ・リキテンスタインをアメコミファンが叩いたとか聞いたことがない。
f:id:knockeye:20180823111450j:plainウサギは疲れました