『盆唄』

 中江裕司監督の撮ったドキュメンタリー映画『盆唄』は、福島第二原発の事故でいまだに立ち入り制限区域となっている双葉町で、コミュニティーが喪失したことで、途絶しかかっている「盆唄」の歌と踊りを何とか生きながらえさせようと活動をはじめたひとたちを追っている。
 震災直後は、盆踊りどころではなかったのだろうと思う。現に、主人公のひとりは東京電力に勤めていた人で、原発事故直後は、かなり風当たりがきつかったと語っていた。
 でも、それから月日が流れて、自分たちの町がゴーストタウンになっていて、自分が生きている間に帰れるかどうかわからない、というときに、「あの盆踊りがなくなっちゃうのは寂しいな」と思える、自分の根っこがそこにあると思える感覚があるについては、個人的にはうらやましいと思った。
 私が今住んでいるここでも、盆踊りみたいなことが幼稚園のグランドでやっているのを見たことがあるが、そういうのを見ても、なつかしさどころか、疎外感しか感じない。それは、たんにここが地元でないからだけでなく、そういう行事が連想させる、前近代的な「ムラ社会」のイメージに反射的に拒否反応を覚えてしまうからだろうと思う。
 そしてもう一点は、戦後開発された新興住宅街で行われているそうした行事には住民が愛着を覚えるほどの伝統はないのだし、だいいち、住民自身、その子供たちは、またどこか違う町で暮らし始めるのがフツーであるかぎり、そもそもその土地にコミュニティーを作る意識が希薄で、役場や自治会のお仕着せの盆踊りは、しらじらしいものにならざるえない。

 しかし、双葉町の盆唄はそういったものではなかったらしい。町に十数の連があり、それぞれの連が町を踊り歩き、最後に、やぐらのもとに集まっていっせいに踊る盛大なものだったそうだ。
 そうしたかつての賑わいの写真をみたとき、どこか富山の八尾のおわら風の盆に似ているなと思ったのだけれど、どうも、富山からの入植者によって伝えられたともいわれているらしい。
 原発の町というイメージの双葉町にそういう伝統があったことが意外だった。

 映画のもうひとつの軸は、岩根愛という写真家が、ハワイの日系文化を取材するうちに、ハワイで今も踊られている「ボンダンス」のルーツが福島の「相馬盆唄」であることを発見したことから、おそらく、避難民の方たちが生きている間には復活させることができないだろう、双葉町の盆唄を、ハワイで歌い継いでもらおうと活動し始める。
 ちなみに岩根愛は、ハワイのボンダンスを撮った『KIPUKA』で第44回木村伊兵衛賞を獲得した。

岩根愛写真集 KIPUKA

岩根愛写真集 KIPUKA


 このハワイで踊られているボンダンスが魅力的だった。オープンで明るい。それは、移民の人たちが自分たちの文化を保とうとする思いの強さと、結局、彼ら自身も移民である白人の人たちが、他者の文化に対して示す自然なリスペクトの態度が、不思議だけどこういうしかない、なつかしかった。

 自分がいつ自分のコミュニティーを喪失したのかもうおぼえてすらいない。それどころか、もしかしたら、生まれた時からすでにそんなものはなかったのかもしれない。その意味では、ハワイで生まれた日系人たちとほとんど同じなのかもしれない。そんななかで、自分たちのルーツを見つめていようとする、人とのつながりへの思いが、結局それがなつかしいんだと思う。

 はてなブックマークですこしバズった記事に、「公共交通機関で席を譲らない日本人」という記事があった。賛同や反論がいろいろあったのだが、たしかに、事実として、日本人はあまり席を譲らなくなったと思う。わたしはお年寄りには席を譲ることにしているが、これはまあ、腰を痛めているために、長時間座っているとかえって痛いせいなのだが、それでも、お年寄りから断られることが多くなったと感じている。お年寄りの方でも、ホントに、譲ってほしくなさそうにみえる。断るのが申し訳ないので座るって感じ。
 いろいろな意見があったけど、わたしとしては、日本人の横のつながりが極端に希薄になっているのだと思う。電車の例でいえば、そこにあるのは、鉄道会社と乗客の縦の関係だけで、乗客同士の横の関係は意識にないのではないか。だから、鉄道会社のミスでダイヤが乱れたり、乗務員の態度が悪いと不快になっても、乗客同士が席を譲ったり、話しかけたりするのは、気持ち悪いんじゃないかと思うがどうだろうか。

 最近、極右的な言動を示す人が多いというようなことについても、個人と国家のあいだにかつてはあったコミュニティーの意識が失われて、意識のバランスが取れないからではないかと思う。意識の中で、個人と国家が直接むすびついてしまっているのだ。
 たぶん、横のつながりも縦のつながりも虚構にすぎない。そうだとしても、そのバランスをとることは抑止力として重要なんだと思う。

 この映画は、しかし、ドキュメンタリーとして不満に思うのは、盆唄の由来を富山からの入植者を主人公にしたアニメで説明しているところ。アニメであっても、ドキュメンタリーの中に虚構を挟み込むと、とたんに力が弱くなる気がする。時間をかけて取材しているのだから、そこも今現在の富山の盆唄に取材するだけでよかったと思う。ルーツを富山に探るシーンはあるのだし。ハワイでの昔のサトウキビ収穫シーンの再現もない方がよかった気がする。
 
 そういいつつ思い出すのは、フレデリック・ワイズマンの『ジャクソンハイツへようこそ』で、説明的なシーンは一切入らないので、事実関係でちょっと混乱するところはあったが、ただ、ドキュメンタリーはあの方が正しいと思う。