東京都庭園美術館でキスリング展

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 改元を記念してというわけではないけれど、旧朝香宮邸である東京都庭園美術館にキスリング展に。正直言うと、キスリングなら、GWだろうがたぶん混まないだろうと思っただけ。
 藤田嗣治、ジュール・パスキン、マリー・ローランサンアメデオ・モディリアーニ、とか、エコール・ド・パリの絵描きさんたちは、裸婦の絵を舞台に腕を競った。
 異邦人の画家たちには、目の前のモデルをどう描くかしかなかったし、それが絵だということを疑う必要もなかった。それぞれの画家の裸婦の美しさもたしかにそうだけれど、その辺の単純さが、なんか今っぽくなくていい。
 
 東京都庭園美術館の洗練された内装を見ながら、哀しげな気持ちになる。

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朝香宮

というのも、いま、福田和也の『昭和天皇』を読んでるところ。これは、ホントに改元を機に読んでみているのだが、五・一五とか、二・二六とかのテロのようすがあまりに凄惨、そして、あまりに愚かしく、情けなくなってくる。第一次大戦後、世界の五大国のひとつであった日本が、落ちるところまで落ちたのである。
 吉田健一も、書いていたけれど、二・二六事件のとき、昭和天皇自らが陣頭指揮をとって、これを制圧したとき、学生たちは快哉を叫んでいたそうだ。
 にもかかわらず、二・二六事件の後も、陸軍は焼け太りするばかりだった。魚住昭が、太平洋戦争を軍の暴走で片付けてよいのか、みたいなことを書いていたが、片付けるかどうかはともかく、軍の暴走と言うのが、ひとまず適当だと思うが、どうなんだろうか。
 そもそも、中国での戦争は、陸軍がなし崩しに始めたのであって、天皇も政府も国会も承認していない。軍がなし崩しに始めた戦争が既成事実化し、国を泥沼に引き摺り込んで行った。
 福島菊次郎が「天皇の戦争責任展」という写真展を展開していたことがあった。福島菊次郎の三里塚の写真や、ウーマンリブの写真は好きだが、この世代の人たちのいう「天皇の戦争責任」論は、私にはピンとこない。公平に観て、昭和天皇はあらゆる局面で戦争を回避させようとしている。二・二六事件や五一五事件は、「君側の奸」を討つと言いながら、その実は、天皇に対する軍の脅しだった。
 その、クーデターを起こした兵士たちを英雄視し、助命嘆願書を出して、軍をつけあがらせた国民の方が、「戦争責任」という意味では重いと思える。兵として参戦した福島菊次郎が、天皇の戦争責任を言う資格があるのか疑問に思う。

 それにしても、おそろしいのはデフレ経済で、浜口雄幸の金融政策の失政が、軍の暴走を招いた遠因だと言えそう。この10月にまた消費税を上げるそうだが、デフレスパイラルのヒキガネにならないとは到底思えないのだが、誰が喜ぶんだろうか?。