「ジョアン・ジルベルトを探して」

 「ジョアン・ジルベルトを探して」は、ボサノバの創始者(これについては昔『ヴィニシウス』という映画でヴィニシウス・ヂ・モライスがそうだと聞いていたが、モライスは、作詞家で、歌とギターはジョアン・ジルベルトだった。)のジョアン・ジルベルトを探すドキュメンタリーなんだけど、ジョアン・ジルベルトは今年八十八歳で亡くなっているし、この映画が製作された2018年に、ジョアン・ジルベルトに会って、それがどうしたの?って気がする。87とか88とかの歳になって、知らない外国人が訪ねてきたとして、それは会いたくなくて当然じゃないかと思う。
 ということで、映画は、不在のジョアン・ジルベルトをめぐって、周辺の人々にインタビューする構成の、ジョアン・ジルベルトの評伝みたいになる。
 それだけでは、ありがちと言えなくもないところに、奇妙な味わいを添えているのが、マーク・フィッシャー(カタカナにすると同姓同名の著作家がいるが、その人ではなくドイツの若い人のようで、邦訳はでていないみたい)が2012年に上梓した

Hobalala

Hobalala

『オバララ ジョアン・ジルベルトを探して』という本。何故、このドイツ人が、ボサノバの創始者に心惹かれたのかわからないが、とにかく、彼は、ドイツからブラジルにやってきて、ジョアン・ジルベルトに会おうと奮闘する。ジョアン・ジルベルトは2006年には来日してステージをこなしている。2008年から公式の場に姿を見せていないが、2010年という、マーク・フィッシャーが旅したこの年には、まだ、ジョアン・ジルベルトに会いたいという気持ちにリアリティーがあった気がする。
 わずかな違いかもしれないが、やはり、隠棲して10年以上たつのに、外国人が突然訪ねるというのはどうだろうか。日本でいえば、ちあきなおみとか、原節子とかになると思うが、ずっと隠棲しているかつての大スターを突然訪ねる、という場合、訪ねる動機が強く問われることになると思う。
 観客の前から姿を消してまだ2年というマーク・フィッシャーの場合は、単なるファン心理でも許されるラインであったかもしれない。
 そういうことを、たぶん、この監督のジョルジュ・ガショも、実は、よくわかっている気がする。映画は、だから、ジョアン・ジルベルトを探しているよりは、むしろ、マーク・フィッシャーという謎のドイツ人を追っている。マーク・フィッシャー自身は、すでに死んでいる。この旅の帰国後に、ほどなく自死したそうである。

 ドイツ人の若者で、シューベルトモーツァルトではなく、ジョアン・ジルベルトを探して、ブラジルに来て、果たせず、帰国後自死した。
 スイスとフランスの二重国籍を持つジョルジュ・ガショ監督は。むしろ、このドイツ人の若者を(といっても享年40だが)追いたかったはずだが、そうではなく、彼が追ったジョアン・ジルベルトの痕跡を追走する。
 そういう追跡のクライマックスは、ジョアン・ジルベルトが若いころ、ギターを練習していた浴室のシーンだろう。誰かを探している人が、探している誰かも何かを探していたとすれば、その先に何も探しようがない気がする。
 そういうわけで、ボサノバを追ってるようで、実はぜんぜんそうではなく、何かを探している人を探して、あなたは何を探しているのか、そして、それを何故探しているのか、という謎を抱きながら、その謎の周囲をぐるぐる回っている不思議な映画になっている。
 ジョアン・ジルベルトを探す、マーク・フィッシャーを探しているが、その両者ともが不在であるという。

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ジョアン・ジルベルトを探して