この週末は、『ルース・エドガー』と『SKIN』を観た。
『SKIN/スキン』は、ガイ・ナーティヴ監督が観たテレビドキュメンタリーに基づいている。映画のおしまいには、登場人物のモデルになった人たちの姿も見られる。「大丈夫なの?」と思った。証人保護プログラムとかじゃないのと。
アメリカには1000を超すヘイト団体が確認されているそうだ。この映画は、そんな団体のひとつ「ヴィンランダーズ」から脱会しようとしたブライオン・ワイドナーをジェイミー・ベルが演じている。
ジェイミー・ベルとともに、この映画に、文字通り、ずしりとした手ごたえを与えているのは、ブライオンと恋に落ちるジュリー・プライスを演じるダニエル・マクドナルドだ。
ダニエル・マクドナルドの主演した『パティ・ケイク$』は観た。映画としては、青春映画の佳作くらいのことだと思ったけど、この人の存在感だけは印象に残った。今回のジュリーはこの人以外では考えられないくらいのはまり役だと思う。この人がいなければ成立しなかったとすら思う。
「ヴィンランダーズ」のママを演じたヴェラ・ファーミガもよかった。ヴェラ・ファーミガとダニエル・マクドナルドの母性の対立という見方もできると思う。
世界一の経済大国が国内の貧困を解決できないのはみじめなことだ。自由とチャンスの国だから、貧困は自己責任だといわれて、市民の武装化も認められているなら、金が欲しけりゃ襲って奪えと言ってるのと同じにきこえる。1000を超すヘイト集団が草の根的に生まれてくるアメリカのとりとめない荒涼さを感じさせた。
アメリカの自由は、「自由」という名を冠したナショナリズムなのではないか。一人の人としてならもっと別の生き方があるのに、「偉大なアメリカ」がその生きかたを疎外しているわけである。これは、「日本ヨイクニ、エライクニ」と思っている人にも当てはまるはずだと思う。
『ルース・エドガー』もまたこのコロナ禍で公開が延期されていた映画のひとつ。でなければもっと話題になっていたはずだと思う。
役者の顔ぶれがすごい。『海の上のピアニスト』、『レザボアドッグズ』のティム・ロス、『マルホランドドライブ』のナオミ・ワッツ、『ドリーム』のオクタヴィア・スペンサー。たぶん、この3人の名前を聞いただけで無条件に観に行こうと思うファンもいるだろう。
それに加えてシナリオが素晴らしい。もとは、J.C.リーという人の舞台劇であるらしい。
「black lives matter」のうねりの中で観ると何とも味わい深い。
主人公のルースは、紛争地帯のエリトリアで7歳まで育った。その後、ティム・ロスとナオミ・ワッツ夫妻のところへ養子に入った。ポスターに「優等生か?、怪物か?」とあるように、それから10年、スポーツでも学業でも抜群の成績を収める高校生になった。
「黒人なのに『ルース』なんて名前なの?」というセリフがある。このあたりの感覚はちょっとわからない。本当の名前は、アメリカ人の両親には発音が難しすぎるので、父親が「ルース」という名前を付けた。何でもないことのようだけれど、こんなエピソードに、主人公のアイデンティティーの闇をのぞかせる脚本はうまい。
オクタヴィア・スペンサーの演じる、黒人女性教師ハリエットは、ストレートヘアーのかつらをかぶっている。彼女は、ルースにとって白人社会の適合者として、彼の先達と見えざるえないわけで、この女教師は彼に期待をかけているが、彼の側には反発がある。
実は、推理劇としてもすごくよくできていて、観終わった後に、あの場面はああいう事か、あそこはこういう事かとかいろいろ考えてしまう。そういうのが好きな人には向いているだろう。
なので、ネタバレを書くのはこころぐるしい。しかも、すごくよくできているので、ちょっと書いただけでも、全部ネタバレになりそうでこわい。たとえば、ポスターにある「優等生か?、怪物か?」っていうコピーでさえ、「それは言っちゃっていいのか?ああ、いいのか」とか考えてしまう。
ともかく、全部わかってみると、じつは、10代のころにはありがちなことであったのかもしれないのに、ルースの来歴のために、怪物にみえたり、感動物語の主人公に見えたりする、そういう偏見を利用して、観客をミスリードしていく見事な脚本だってことだけは書いておきます。
しかし、そういう見事な推理劇の見かけの下に隠れているテーマとして、ルースとハリエットの対決があることが、この映画が並々ならぬところだと思います。しかも、映画的なビジュアルとして。
黒人が、白人社会に適合していこうとすることは、アメリカ社会を変革していこうというような400年かかっても遅々として進まないようなことよりも、それが可能な立場にある黒人にとっては、ずっと現実的であるに違いないと思う。
でも、その生きづらさを誰よりも感じる立場にあるルースは、若者らしい理想でハリエットに反発する。ルースの友達のひとりは、ルースを「バラク・オバマ」と呼びます。ジェームス・ボールドウィンは、いつか黒人の大統領が誕生したとしても、それは、おとなしくしていればそのうち黒人から誰か大統領にしてやるってことにすぎないと、1980年代にすでに書いていました。
構造的な差別のなかで、アメリカの黒人がいかに生きづらさを強いられているか、また、白人がいかにそうした生きづらさを、無意識に強いているかについて、かなり鋭く、深いところまできりこんだ映画だと思いました。
「ルース」は彼のほんとうの名前ではないのですが、結局、彼はその仮面で生きていくことを決意したように思えます。
国吉康雄のこの絵を思い出しました。