『ブレスレット 鏡の中の私』と『アンティークの祝祭』

 イオンシネマがさすがにTOHOシネマズと同じ映画ばかりかけてちゃまずいんじゃないかと気づいたみたいで、こないだの『アルプススタンドのはしの方』とかもそうだけれど、差別化を図ろうという努力を始めているみたい。
 『ブレスレット 鏡の中の私』も、もしかしたらそういう映画のひとつかもしれない。ロカルノ映画祭で話題になったらしい。おもしろかった。
 推理ドラマなので内容にふれにくい。法廷劇で、16歳の女の子が殺人の罪に問われる。彼女が有罪なのか無罪なのかという判断が揺れて、観客を最後まで翻弄する。
 最後まで、ペースを乱さずに、観客を突き放し続けるのってたぶん難しいんじゃないだろうか。ずっと、どうなるんだろう、どうなるんだろう、でエンディングまで引っ張っていく、みごとなどSぶりだった。
 タイトルの「ブレスレット」なんだけど、英語のタイトルでも、フランス語の原題でも「ブレスレット」なんだけど、どう見ても「アンクレット」しか出てこないんだけど。
 たぶん、フランスの法律なんだろう。公判をひかえているけれども、拘置する必要がないと認められている、のか、10代だからなのか、自宅軟禁ってかたちで両親と暮らしている。ただ、監視のためにGPS内蔵の足輪を着けている。
 あれは、でも、アンクレットであって、ブレスレットじゃないな。何かみのがしたのかもな。最初にあの監視用のアンクレットを主人公がブレスレットと言った気もする。

 おなじく、犯人が分からない系の映画として、『スリービルボード』がある。宮藤官九郎が絶賛した。アカデミー賞をとったギレルモ・デル・トロの『シェイプ・オブ・ウォーター』よりいいって言ってた。
 あれは、娘をレイプ殺人された母親が、犯人が捕まらないのに逆ギレして、警察署長を非難するボードを国道沿いに建てるって発端から、いろいろありつつ、最後に犯人がわかりそうになる。でも、違うんだよね、結局。
 で、そのあとの展開が面白いんだけど、それまで対立していた母親と、はみだしものの警察官が、「もういいや、あいつが犯人で」ってなって、ふたりでそいつをぶっ殺しにいくところでエンド。
 今回は、犯人とされてる少女が主人公だから、これとは視点が違うのだけれど、犯人が全く分からない状況で翻弄されていく感じは近いかも。

スリー・ビルボード (字幕版)

スリー・ビルボード (字幕版)

  • 発売日: 2018/05/16
  • メディア: Prime Video

 今まで知らなかった家族の素顔が露わになるって意味では『ゴーン・ガール』もそうかも。あれは、北野武が絶賛してた。
 あれはコメディーとしても観られる。のに、怖いっていう。あそこまで超美人の嫁さんが、あそこまでやりたい放題って。デート映画のつもりで観に来てたカップルは気の毒だった。

ゴーン・ガール (字幕版)

ゴーン・ガール (字幕版)

  • 発売日: 2015/03/06
  • メディア: Prime Video

 この『ブレスレット 鏡の中の私』の場合は、弟君の行動が謎なんだよな。天然なのか。姉に仕込まれているのか。ディエゴっていう彼氏の行動も、女友達も。疑おうと思えば疑える。無邪気にも計算にも取れる演出が見事だったと思う。
 主人公の母親を演じたキエラ・マストロヤンニは、カトリーヌ・ド・ヌーヴの『アンティークの祝祭』にも、カトリーヌ・ド・ヌーヴの娘役として出ていた

 これは、日本人としてのひいき目ではなく、是枝監督の『真実』の方が断然よかったと思う。『真実』の撮影の時、カトリーヌ・ド・ヌーヴは「バリを出るのはいやだ」という条件を出してきたそうで、ロケ地を探すのに苦労したとか。
 それにしても、カトリーヌ・ド・ヌーヴを演出するって肚のすわり方が是枝監督はやっぱりすごいと思う。パルムドールを獲ったからこそできたことだと思うのだけれど、せっかくパルムドール撮ったんだから、カトリーヌ・ド・ヌーヴを演出しちゃえってって、それが出来ちゃうんだからすごい。
 カトリーヌ・ド・ヌーヴはほとんど台詞をおぼえてこなかったっていうけど、それに動じた様子もなく、メタ構造の面白い映画になってました。

真実(字幕版)

真実(字幕版)

  • メディア: Prime Video

 ところで、『ブレスレット』のこの副題『鏡の中の私』は、アグネス・チャンさんの歌のタイトルなんだけれど、これはもしかしたら、霜降り明星せいやにたいする応援メッセージかもな。二週つづけてオールナイトニッポンZEROを休んでる。
 第七世代では、かが屋の加賀さんも体調不良とかで、復帰は未定みたい。せいやの方は、例のZOOM騒動がこたえているのでなければいいのだけれど、あんなの、プライベートな映像を勝手にアップした女の方が悪いに決まってる。映画よりはるかに分かりやすいんだけど、どうして女の方が被害者なんでしょうね。
 
*追記

『ブレスレット 鏡の中の私』の他の人のレビューを見ていたら、あんまりネタバレを気にしてないみたいなので、ここからネタバレです。

 主人公の女の子が有罪か無罪か最後まで分からないのは、いま、裁判の結果をそのまま真実と信じる人の方が少数派なのだから、名探偵の見事な謎解きは、確かに胸がすくけれど、リアルとはかけ離れている。
 その意味では、最後に謎解きはないけれども、優れた推理小説のように、最後まで観客をミスリードし続ける演出は見事だったと思う。
 たとえば、ガソリンスタンドの監視映像、主人公がうなだれている。それだけで「あれ?、犯人か?」と思うように、観客を仕向けている。
 警察に連行されるその瞬間からふてぶてしい主人公のキャラクター設定もうまい。あの引きのシーンが不可解さへの入り口なのである。
 警察が見つけられなかったナイフを小学生の弟があっさり見つけちゃうのも上手い。両親がそのナイフを裁判所に提出するかどうか迷うのもうまい。
 鑑定の結果、そのナイフは凶器じゃないとわかる。となると、検察側の筋書きは弱すぎる。にもかかわらず、主人公は「そんなの凶器じゃないと分かってた。ホントの凶器なら、ロワール川か海に捨てるに決まってる」と余計なことを言う。
 シロの方に秤が傾きかけると、クロの方にオモリを足す、この芸が見事だったと思う。
 ラストに監視用の足輪をはずされた足首に、ネックレスをはずしてアンクレットに巻くのだけれど、これも意味深なようで、実は、どうとでもとれる。
 昔は、アンクレットは、娼婦のしるしととられるおそれがあって、眉をひそめられるものだった。主人公の世代の女の子は、そんなこと知りもしないだろう。ブレスレットとアンクレットの違いも分かってないし。ところが、ラストシーンに持ってくると、何か意味があるように見えるでしょ?ってのが、この映画の一貫したスタンスだったように思う。
 最初の、突き放したような引きのシーンから、ラストのアンクレットの寄りのシーンまで、何か意味があるんじゃないかって疑って見てますよね!って、そういう映画だと思う。