星野源のオールナイトニッポンに米津玄師がゲストに来ていた。
聞いていて隔世の感があるのは、桑田佳祐が『ただの歌詞じゃねえか、こんなもん』って本を出したのが1984年だった。
本のタイトルにすぎないと言われてしまうとそれまでだけれど、桑田佳祐が曲先で歌を作っているのはよく知られている。
松本隆は、この「曲先」という作曲方法は日本にしかなく、改めたほうがいいと言っていた。
しかし、たとえば、大滝詠一の『ロング・ヴァケーション』の曲たちについて、松本隆の詩が先にあったと言えるのかどうか。
また、曲先といっても、桑田佳祐みたいに詩も曲も結局自作である場合、詩先、曲先って分け方にどれくらい意味があるのかわからない。
ただ、サザンオールスターズがデビューした頃の状況に「ただの歌詞じゃねえか、こんなもん」と発言する意味があったってことはホントなんだった。
ブラック・ライヴズ・マターの運動がますます盛り上がるアメリカで、「システミック」な差別が問題になっている。アメリカの差別をいう時、問題なのは個々人の感情ではなく、システムに組み込まれている差別だということ。どこかの非黒人が「ニガー」と口にしたとかが問題じゃないってことを言わなければ、システムとしての差別は生き残り続ける。
ここで言ってるのは、そんな大問題ではないけど、1980年ごろの日本の音楽の状況には、システミックな問題があって、「ただの歌詞じゃねえか、こんなもん」は、それに風穴を開けようとしてきた動きのあらわれとして迎えられたわけだった。
星野源は細野晴臣に私淑していたり、マーティン・デニーのタイトルからsakerockってインストゥルメンタルのバンドをやっていたりした。宮藤官九郎の映画『少年メリケンサック』に、星野源が出てたのは気が付いてたけど、あれsakerockごと出てたんですね。
そして、米津玄師はボカロ出身。そういうことが特にユニークとまで言えない状況だと思う。古いシステムはとっくに瓦解した。
そういうなかで、出自が全く違う二人が、詩や曲についてする会話は面白かった。
ちなみに米津玄師が好きな星野源の曲は「さらしもの(feet.PUNPEE)」、星野源が好きな米津玄師の曲は「春雷」だそうだ。
この「さらしもの」についての米津玄師の話が面白かった。