海を渡った古伊万里 ウィーン、ロースドルフ城の悲劇

 大倉集古館に「海を渡った古伊万里 ウィーン、ロースドルフ城の悲劇」を観に行った。
 ロースドルフ城は、かつては、古伊万里をはじめ、マイセン、セーブル、ウエッジウッドなど、ヨーロッパ各地の磁器のコレクションで飾られていたが、第二次大戦末期、進駐してきたソ連兵によって粉々に破壊されてしまった。一部は修復されたが、粉々に破壊された陶片をそのまま展示することを選んだ。
 とはいえ、もっと修復されているのかと思っていたら、実情、修復不可能なものがほとんどで、膨大な破壊のあとを見せられることになった。
 

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大倉集古館

 大倉集古館の醜悪な外観ともあいまって、なんとも重苦しい気分になった。小田急江ノ島駅の駅舎に似ている。
 しかも、目の前がアメリカ大使館で、そうとはしらず、大きなイチョウの木を写真に撮ったら、警察官に呼び止められて削除させられた。
 なるほど、少し歩くと星条旗が翻っているのが見えた。竜宮城を模した建物の筋向いに巨大なアメリカ大使館。気分次第では笑えたか。
 しかし、ソ連兵たちはどうしてこれらの磁器を破壊することを選んだのだろうか。桃太郎だって鬼の宝物を持ち帰った。粉々に破壊したりはしなかった。持ち帰れば、おじいさん、おばあさんが喜んだろうに、わざわざ地下室に秘匿されていたものを暴いて破壊した。
 三島由紀夫が言っていた「陸軍の暗い精神主義」という言葉がちらついた。ロースドルフ城の城主がこの陶片、この破壊の痕を保存し展示しようとした思いが分かる気がする。この破壊はアートなのである。現代アートなのだ。現代アートは、古典的な「美」に対するヘイトなんだという考えが浮かんだ。誰か反論してほしい。
 三島由紀夫の自決は、結局アートだったという考えも浮かんだ。自衛隊駐屯地での割腹自殺が政治的な何かであるはずがない。一時期はロマンティシズムを憎んだとも言った三島由紀夫だったが、10代の頃の感化を三島由紀夫でさえ逃れられないものだろうかと暗い気持ちになった。