『TAR/ター』ネタバレ!

 書き忘れてたけど『TAR/ター』も観たんだった。それでも『J005311』の方がオススメ。
 ケイト・ブランシェットが演じているリディア・ターという女性のキャラクターが意外に単純で、何なら愛すべきと評してもいい。
 レズビアンなんだけど(『キャロル』を思い出します)、けっこう奔放みたいで、成功者で性に奔放って、要するに「オヤジ」じゃないですか?。
 音楽に妥協がなくて、耳も手も確かなんだけど、その一方でセクハラオヤジってなると、人物に深みはない。どちらかというと「おかしみ」の方がまさって「いやいやそれはさ」って感じの言動が目につく。
 オープニングは、どこかの民族音楽で始まる。リディア・ターって人は、クラシックの指揮者として輝かしい功績を残している一方で、埋もれた民族音楽を掘り出し保存するフィールドワークもしている。
 それがオープニングな訳だから、それは回収されなければならなかったと思うのだけれど、最後のがそうかって言われると、非白人社会に生きているものとしてはちょっと首を傾げる。
 リディア・ターはキャリアの絶頂期にいてマーラー交響曲をコンプリートすべく、交響曲5番のライブ録音に臨もうとしている。
 ところが、輝かしいキャリアの頂点になるべきだった、そのライブ録音が、裏切り、スキャンダル、炎上などなどなどのトラブルで中止に追い込まれてしまう。
 そういうストーリーなんだから、それはそれで文句の言いようもないのだけれども、今年大ヒットした『BLUE GIANT』と比べてみましょう。
 『BLUE GIANT』は、さまざまなトラブルに見舞われながら(ピアノ弾ける大学生なら何も工事現場でバイトしなくてもいいと思うけど)、最後はライブを実現する。ベタではあるけど、やっぱりライブは聴きたいじゃん。今回の場合も、リディア・ターが指揮するマーラーの5番が聴きたいじゃん。クライマックスにそれが欲しくなかったですか?。
 何ならマーラーの5番でなくてもいい。なんかすごい演奏が欲しかった。この映画の顛末のように、楽譜が手に入れられないような大阪の作曲家のゲーム音楽でもいいじゃないですか?。「うわっ、すごい!」って演奏でしめてほしかった。
 というか、そうでないと、映画の冒頭(アバンタイトルって言ってもいいのか)で、ターが採取した民族音楽が流れる意味がわからなくなる。マーラーでなくてもリディア・ターが指揮するとすごいよって、それが映画的なウソでも、そう締めてくれないと、「エェッ?」ってなるのだけれど違います?。
 もうひとつ腑に落ちなかったのは、スキャンダル、裏切り、炎上の内容なんだけど、リディア・ターがクラシック界の頂点に君臨しているってこと自体が、いわゆるガラスの天井(glass ceiling)を、彼女は克服したって設定だと思う。彼女も、クラシック界もそれを克服したってことになる。
 だとしたら、スキャンダルが弱すぎないか?。色恋沙汰の末に相手が自殺したとしても、あくまで自殺だし、『砂の器』みたいに他殺じゃないんだし(『砂の器』だってコンサートはやったぞ!)、道義的な責任は言われるとしても、すでにリハーサルまで終わってるコンサートが中止になる?。『カルテット』みたいにコンサートで客席からブーイングってならわかるが中止になる?。
 チケットももう売ってるはずだし、熱烈なファンも多いはずだし、そんなに有名なら恋多き女性なのは知られてるはずだし、ニーナ・ホス演じるパートナーの証言によればこれが初めてってわけでもなさそうだし(自殺沙汰はなかったにせよ)、現実的に考えて、賛否両論ってところだと思うんだ。全ての地位を失うにはスキャンダルにドラマツルギーが不足してる。
 『砂の器』は、これがバレたら人生が破滅するってスキャンダル(って殺人なんだから)に、そこに至る主人公の人生が音楽に反映される見事なクライマックスだった。そのインパクトがこの映画のようなSNSの炎上なんかにあるかっていうと首を傾げる。
 それに、さっき言ったとおり、女性で同性愛者が成功している時点で、ひとつの壁はクリアしてる訳じゃないですか?。その壁に比べて、今回のセクハラ案件の方が強い?。そこもドラマが弱くなる一因かと。
 つまりこういうことが言いたいわけ。ガラスの天井を突き抜けた強い女性が失脚するにはスキャンダルが弱い。地位や名誉を失った音楽家の物語を締めくくるにあたっては揺さぶられる音楽がない。
 ただ、『BLUE GIANT』や『砂の器』みたいな感情曲線を描かないからと文句も言えない。別の作品なんだし。でも、だとしたらあのオチは何なんだろう?。『カルテット』(坂本裕二と是枝裕和コラボの『怪物』楽しみです)みたいに着ぐるみで演奏するまで行くと笑えたと思うんだけど。
 

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