『PERFECT DAYS』

 ヴィム・ヴェンダースの日本好きというか、小津安二郎に対する敬愛は、『東京画』などで知っているけれども、『東京画』は『東京画』と言いつつ、記憶に残っているのは笠智衆との対話って感じで、エッセイ漫画ならぬエッセイ映画って感じ。ヴィム・ヴェンダース監督のナレーションでスケッチが綴られていくって作りだった気がする。
 それも無理もないので、前にも書いたけれど、同じく小津安二郎を敬愛するアッバス・キアロスタミが『ライク・サムワン・イン・ラブ』を日本で撮ったときも、東京と言いつつ、実際の撮影は静岡だったり。そりゃ予算的にも、時間的にも制約が多くなってしまうのは仕方なかった。
 言葉の問題もあるが、それに加えて、制作、配給その他、映画撮影におけるすべてのシステムが馴染みないわけじゃないですか。是枝裕和監督が『真実』をフランスで撮れたのも、カンヌでの実績に加えて、フランス語の完全なバイリンガルの通訳さんと出会えたのが大きかったと語ってました。
 そういう現実的な困難さを考えると、この『PERFECT DAYS』は奇跡的な作り上がりだと思う。主役が役所広司であるのも重なって、西川美和監督の『すばらしき世界』とか思い出してしまう。
 そして、何ていうのか、日本人監督が撮るより、日本文化との距離感がよいのか、銭湯とか、高架下の呑み屋とか、描き方に日本人が描くと無意識についてきてしまう「記号性」がなくなっていてかえってよいと感じた。
 言い換えると、シナリオの段階での地道な取材を感じた。過去に日本をモチーフにした外国映画は、日本の特殊性を描きたいって気持ちが先に立つ場合が多かった。さすがに「フジヤマ、ゲイシャ」のエキゾチズムを売りにしようとはしないだろうが、でも、『ブラックレイン』(ってこのタイトルが日本って言えば原爆ってそういう短絡さでもあるのだけれど)が、どれくらい日本を、少なくとも、日本のヤクザだけでもリアルに描いていたかといえば疑問だし、『ライジング・サン』も、例に漏れず、日本企業の特殊さを際立たせたかったわけだった。
 つまり、これまでのこういう映画は「日本は特殊だ」ってことを描かないと日本を描いた気がしないというか、じゃないと、日本を描く意味がないじゃないか、と思ってきたきらいがある。それは、ポジティブな方向でもネガティブな方向でも。 
 それに、日本人自身が日本人は特殊だと思ってる節もある。例えば、サッカーのワールドカップで観客がゴミ拾いしてるとか。いや、そうかもしれんけど、なぜか恥ずかしい気がするのだけれども。
 この映画が、だから、日本の特殊性ではなく、ふつうの日本人、日本って国でふつうに生きてる人を描けたのは、ヴィム・ヴェンダースの力量とキャリアもさることながら、いろいろと奇跡的な偶然が重なってのことでもあるらしい。
 ひとつには、そもそもこの映画を作るにあたっての発端が、こういう商業映画のつもりではなかったことがそのひとつ。そもそもは「THE TOKYO TOILET」っていう、渋谷区内17か所の公共トイレを刷新するプロジェクトの、PR映画にすぎなかった。
 しかし、その監督を打診されたヴィム・ヴェンダースが、ピンと来たんだと思う。長編でやれるぞって。このトイレを掃除している主人公に何かを見つけたんだろう。
 敬愛する日本、小津安二郎笠智衆から始めずに、トイレを掃除している日本人から逆算していったのがよかったのだと思う。小津安二郎というフィルターを通して日本を見るのではなく、公衆トイレを掃除している一般人から、小津安二郎の登場人物にたどり着いた。ヴィム・ヴェンダース自身がこの発見に感動しているのが画面から伝わる。小津安二郎がふれていた現実の人間に、今自分も触れているって感動が伝わってくる。
 その他の環境も幸いした。THE TOKYO TOILETのプロデュースはユニクロの柳井康治さんなので予算の心配はない。共同脚本の高崎卓馬もいい塩梅だったのではないかと思う、いろいろあった後なので。
 主人公の車が軽だったり、幸田文の文庫本を読んでいたりは、さすがにヴィム・ヴェンダース発信ではなさそう。石川さゆりが『朝日のあたる家』の、ちあきなおみ版を歌ったりは、ヴィム・ヴェンダースとのキャッチボールを感じさせる。ちなみに映画タイトルの『PERFECT DAYS』はルー・リードの楽曲タイトルから取られていると思う。映画の中でも使われている。
 撮影監督は、ヴェンダースドキュメンタリー映画『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』でカメラを担当したフリッツ・ラスティグ。この映像が美しい。
 事前に公開されているあらすじだけを聞くと、淡々とした日常が描かれているだけのように感じられるかもしれないが、実際の味わいはかなり苦い。それこそが小津安二郎の真骨頂だったわけだし、その意味でも、ヴィム・ヴェンダースにとって会心の一作なのではないだろうか。
 道元の書いたことなんか読んでると、禅の修行って要するに掃除なんじゃないかと思うところもある。道元が中国に留学している頃はあちらの禅僧が不潔で参ったらしい。
 禅僧のような生活に憧れることもある。とはいえ、禅僧のような生活ができるのは禅僧だけ。そして、たとえ禅僧であっても、禅僧のような生活をしているだけでは禅僧とはいえないわけで、「禅僧のような生活」ってファンタジーに人は陥りがちなわけだけれど、そんな生活にたどり着いてしまった主人公の苦い現実をこの映画は見落とさない。そしてそれは意外にも先進国では共通してるのかもしれない。少なくとも日本では、この主人公に自身を投影できる人も多いと思う。


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