小原古邨

 太田記念美術館で、小原古邨の展覧会がやってる。

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太田記念美術館 「小原古邨展」

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 この人も、日本より海外で有名だそうだ。
 展覧会は、前・後期に分かれていて、全点展示替えがある。前期を見逃した人は残念だったけれど、3月1日から後期展示になっている。
 一見、肉筆画に見えるが、すべて、江戸時代以来の、絵師、彫師、摺師に分かれた分業システムだそうだ。
 これが何故そう見えないかといえば、もちろん、彫師、摺師の腕がすごいんだけど、それに加えて、にもかかわらず、摺師、彫師の印がない。これだけのすごい仕事をしながら、印のひとつも残さないなんて、それが、まあ、明治なんだなと思うし、だとすれば、この鑑賞者の主体の西洋の愛好家たちが、浮世絵の分業システムを理解していない、あるいは、尊重していないということなので、どのみち浮世絵の世界は衰退していかざるえなかったということだろう。
 後年には、例のスティーヴ・ジョブズもコレクターだったという川瀬巴水を、西洋に売り出した渡辺庄三郎が版元になっている。渡辺庄三郎の新版画のころは、しかし、「え?、これ本当に版画なの」といった超人的な技巧は感じられない。渡辺庄三郎が新版画をはじめたのは大正初期だそうだから、もうそのころまでには彫師の腕が落ちていたのではないかと、勝手な想像ながらそう感じた。渡辺庄三郎の新版画は、摺るときに敢えてバレンの跡を残す摺り方をする。好みによるとおもうが私はあまり好きではない。多分あれは、彫師、摺師の物足りなさを補おうとする努力だと思う。まあ、一度、自分の目で確かめていただければいいかと。
 今、サントリー美術館河鍋暁斎の展覧会がやっているが、個人的には、小原古邨の方が良いと思う。それも、ご自分の目で確かめていただければよいかと。
 河鍋暁斎富岡鉄斎という明治の巨匠ふたりの絵は、私の場合、狩野派琳派や円山四条派や、曾我蕭白長谷川等伯雪舟、雪村など室町時代水墨画、浦上玉堂などの文人画、浮世絵なら歌川国芳喜多川歌麿葛飾北斎、歌川豊国、歌川国貞、鈴木春信、渓斎英泉を経験した後に、観てしまったので、それは、上手い下手の問題ではなく、もう完全にやっていることが違うって感じがする。
 富岡鉄斎の場合は水墨なので、くらべたら上手下手がすぐわかるが、絵がうまいといってもいい河鍋暁斎のばあいでも、たとえば、このひとが描いた風神雷神図を本家の俵屋宗達から始めて、尾形光琳酒井抱一、鈴木其一と比べてみるとよい。上手下手と関係なく風神雷神じゃないのだ。
 この変化には、なにかおそろしいものを感じないでもない。河鍋暁斎歌川国芳の弟子だったのである。そして、国芳だって、ずいぶん西洋画の真似をしているのだが、しかし、国芳の絵はやはり浮世絵で、それは江戸の庶民の受けを狙っているのに対して、河鍋暁斎の絵は、誰に向けて描いているのか、ちょっとわからない気がする。
 先日、顔真卿を観た同じ東京国立博物館で、去年の11月、マルセル・デュシャンのついでに、斉白石の展覧会にも立ち寄った。1864年に生まれ、1957年に亡くなった。清朝末から毛沢東時代まで生きた中国の画家である。
 この人の≪借山図≫の第十三図

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斉白石≪借山図≫第十三図

の何も描いていない部分を「余白」と呼べるだろうか。ここに空間意識があるだろうか。わたしはこれは「空白」だと思う。何かを断念している、何かを喪失した絵だと思う。
 小布施にあった(いま検索してみてすでに閉館しているのを知ったが)現代中国美術館で観たもっと若い世代の水墨画の方がずっとよかった記憶がある。

京マチ子映画祭 『浮草』4K修復版

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 角川シネマ有楽町京マチ子映画祭ていうのがやっていて、今日は、小津安二郎監督の『浮草』4K修復版を観にいった。

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 この『浮草』4K修復版は、たぶん去年の「小津4K」のラインアップにもあったと思うが、見逃したので。小津安二郎唯一の大映作品だそうである。
 このほかに、今回の4K修復版はともに溝口健二監督の『赤線地帯』と『雨月物語』。わたしとしては、『雨月物語』と、それから、4Kではないが、黒澤明監督の『羅生門』はぜひとも見たいと思っている。
 『浮草』の脚本は、『晩春』『麦秋』『東京物語』とおなじく野田高梧。それを、紀子三部作の原節子とうってかわったイメージの京マチ子が演じるのが興味深い。設定も鎌倉の大学教授や、東京の開業医などではなく旅回りの一座で、この座長を先々代の二代目中村鴈治郎が演じている。この人と、京マチ子若尾文子の三人は、ちょっと堅気の衆には出せない色気を醸し出している。
 そこに、杉村春子がからむ。去年、紀子三部作をまとめて観て、この人のうまさに一番びっくりした。今回ももちろん。
 今年の日本アカデミー賞は、8部門を是枝裕和監督の『万引き家族』が独占した。その直後の鑑賞ってこともあり、もし、『浮草』と『万引き家族』が争っていたら、どちらが勝ったんだろうと考えてしまった。京マチ子安藤サクラ若尾文子松岡茉優杉村春子樹木希林、二代目 中村鴈治郎リリーフランキー。なかなかいい戦いかも。
 しかし、小津安二郎監督に有利なのは、野田高梧という脚本家がいたことだと思う。今回はカラーということもあり、小津安二郎監督の絵のすばらしさを堪能したが、小津監督は画面作りに集中できたのかもしれない。
 去年、小津安二郎監督についてバズった記事があった。
2018年に名監督・小津安二郎の“狂気”がバズった理由 | 文春オンライン
 静止画としてどこを切り取っても、絵として成立している。小津映画にはそういう眼福ともいうべき贅沢な感じがある。
 関西人のひいき目かもしれないが、二代目 中村鴈治郎京マチ子若尾文子の上方言葉のつやっぽさ。最初の方に、三本締めをするところでは、ちゃんと「大阪締め」になっていたのに感心した。そういうところを揺るがせないのはやっぱりすごいと思う。
 若尾文子が郵便局に電報をうちにいくとき、「た」に濁点がぬけてるとか、そういうことがあるから、二時間の映画からでも、もっと長い時間の奥行きを感じられる。あの濁点がぬけているから、そのあとの川口浩との成り行きに納得できる。
 でも、こうやって書きながら、いまさら、巨匠、小津安二郎の作品に何言ってるんだろうと可笑しくなってしまった。さっき書いたけど、1959年、おおかた60年も前の作品が、今年のアカデミー賞作品と比べて何の遜色もないのだから。
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ドゴールの影を追う文在寅

 韓国で1919年の抗日独立運動三・一運動」100年を記念する政府式典が開かれた。それにさきがけてハノイで開かれた米朝首脳会談がこれといった成果がなく終わったものの、この日程が意図的であったことは間違いないだろう。
 文大統領は「親日残滓を清算」を進めると強調したそうだ。
 しかし、「親日」も「反日」も、韓国は日本の属国だったのであって、親日反日の境目をどこにするか、恣意的にならざるえないと思うがどうだろうか。
 このロジックは、たぶん、フランスのドゴール大統領に習おうとしているのだと思う。韓国は、慰安婦をテーマにした漫画をフランスのアングレーム国際漫画祭で発表したこともあった。韓国の情報戦は国家プロジェクトであり、その周到と徹底ぶりは、日本政府も見習うべきだと思う。
 ドイツと戦いさえしなかったフランスがどういうわけで連合国の一員として、戦勝国のようにふるまえているのかといえば、ドゴールの臨時政府が、フランスの正式な政権と英米に認められたからであった。ほんとのことをいえばペタン元帥のヴィシー政権がフランスの正式な政権だったが、その辺、事情は、いろいろあって、イギリスとしては、フランスが約束を破って、ドイツと勝手に休戦したという思いがあり、フランスとしては、イギリスはろくに戦いもせず、ダンケルクから撤退したという思いもある。そうした、お互い不信感を募らせるなかで、イギリスは、フランス海軍がドイツに利用されるのをおそれて、メルセルケビールで、フランス海軍を攻撃し、海に沈めてしまった。ペタン元帥のヴィシー政権が正当なフランス政府だとなると、イギリスにとっては話がややこしくなる。その辺のことを踏まえて、ドゴールはうまく立ち回った。
 しかし、あれは、ノルマンディー上陸作戦の直後であって、戦後七十年たった今に、歴史が書き換えられるかどうか、たしかにわからない。が、今回は、米朝会談が空振りに終わったので回避できたものの、この先もそうとはかぎらない。アメリカに韓国系住民が多く、ロビー活動が活発だし、日本の経済力が落ち、韓国の経済力が上がっているので、可能かもしれないのである。
 こんどのレーダー照射事件をめぐる立ち回りのうまさを見ていると、そのうち、「韓国人は日本国内でレジスタンスを組織していた」みたいな歴史に変わっているかもしれない。
 それをかんがえると、日本会議とか在特会とか、アナクロな妄想に取りつかれた連中が、いかにバカか、いいかえれば、韓国政府にとって、いかに都合がいい「おいしい存在」か、わかりそうなものである。それが分からないなら、バカ呼ばわりされても仕方ないだろうし、バカ呼ばわりすべきなのである。
 もし、天皇陛下靖国神社に参拝したりしたら大変な国際問題になる。昭和天皇今上天皇も当然それが分かっている。だから、靖国参拝など絶対しない。それをさせようと画策している連中は亡国の輩である。
 靖国神社なんて、19世紀の帝国主義の体裁をととのえるために、薩長政権がでっちあげた政治的な産物に過ぎないので、21世紀にまで存続している必要はないし、百害あって一利もないのであれば、つぶせばいいだけなのだ。その辺の祠なんかは、マンション建設のためだけにでも平気でつぶすだろっての。んじゃ、いいじゃねえか、靖国も。
 天皇陛下が、東京国立博物館で開催中の顔真卿展にお越しになったそうだ。天皇陛下よりも外交センスが卓越している政治家は今の日本にはいないと思う。ご存命中の譲位を決められたのもみごとだった。日本会議の馬鹿どもが反対したけどね。
 

『女王陛下のお気に入り』

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 『女王陛下のお気に入り』は、『ファースト・マン』と同じ日に観た。
 これは何といってもオリヴィア・コールマンのアン女王が圧倒的。情けなく、愚かでありながら、威厳に満ちている。なにしろ、女王が侍女にクンニされているシーンを描きつつも、結局のところ、威厳を失わない。
 しかし、それは当然なのである。日本の天皇にしたところで、たとえば、『源氏物語』なんかエロいとこ、ヤバいとこ、いっぱいなんだが、それで威厳が失われたりしないので、威厳とはそういうものなのだ。威厳に理由も根拠もない。ただ、威厳があればよいのであってそれだけのこと。
 昭和の一時期、軍部が天皇制を利用しようとして、「現人神」とか、そういう、どこから引っ張り出したか知らない、いずれにせよ、国民に浸透しなかった、そういう「威厳についての根拠」のようなものは、すぐにウソがばれる。現に、長めに見積もっても40年ももたなかった。
 威厳や権威に理由も根拠もないからこそ、女王が侍女にクンニされる場面を大画面で描いても、それで威厳が失われたりしないのである。むしろ逆に、天皇を「現人神」とか言って「御真影」とかを強要することで威厳が失われるのだ。そういう強要をしている誰かが天皇の頭を押さえているのが明らかなのでね。
 いま、日本会議とか極右の連中にとっては、天皇陛下靖国参拝が悲願だそうだが、そういうことをすればするほど、天皇の権威には傷がつく。戦前の日蓮主義者が天皇日蓮宗に改宗させようとしていたことと全く同じなのだ。バカはおんなじバカを繰り返すからバカといわれるのだ。王家の威厳というものの構造的理解ができていない。
 話がずれちゃったが、英国の王室は、実在の女王がクンニされるシーンを映画にしても平気な顔をしている。だから、威厳が保たれる。実際、オリヴィア・コールマンのアン女王の威厳にはうたれる。レイチェル・ワイズの女丈夫も、エマ・ストーンの奸臣も見事なんだけど、ヤッパリこの映画の主役はオリヴィア・コールマンなのである。エマ・ストーンレイチェル・ワイズという脂の乗りきっている二人の女優をしたがえて、女王として君臨しているのだから、これはもう見事としかいいようがない。

 *追記

 これを書いた翌日に、オリヴィア・コールマンのアカデミー主演女優賞受賞の報があった。受賞スピーチの用意がなかったとか。渋い選択だったな。でも、ノミネートの面々を眺めてみると、意外に最有力だったかも。個人的には納得です。

「反省しない国日本」

 韓国は、よく言えば、ずるい国、悪く言えば、汚い国。いずれにせよ、もう付き合いはやめたほうがいい。
 しかし、振り返って、日本の対応を見ると、これはまた情けないくらい拙い。このブログでは、何年も前からそう言い続けているのだけれど、韓国との付き合いは辞めて、北朝鮮と関係を改善した方がよかった。と、今となっては過去形で書くしかないが、南北朝鮮が統一する事態と、北朝鮮と日本が国交回復する事態、どちらが有益ですか?。専門家でなくとも、常識でわかる。
 しかも、その実現は夢物語でも妄想でもなかった。小泉訪朝のとき、断固として決断すれば、韓国は今みたいな態度を取れなかった。
 スマートニュースを見てたら、中央日報日本語版の「「反省しない国」日本に勝つには」というコラムがあり、愕然としている。
 日本の戦後はほとんど反省のみだったと言ってもいい。その間、韓国は何をしていたのか?。同じ民族で殺し合い、拉致、拷問、クーデター、金大中暗殺未遂。慰安婦にしてみても、そもそも、日本人の慰安婦もいれば、韓国人の兵士もいたのだし、なぜこれが日韓の外交問題になっているのかといえば、それは、国家による組織的な強制連行があったという、今に至るまで何の根拠のない妄想によるものなので、慰安所そのものは、韓国もベトナム戦争時に設置していたのだし、その慰安所を舞台にせよ、それ以外にせよ、第二次大戦中の暴虐行為は、もちろん日本軍に責任があるに決まっているし、それについて謝罪するには何の躊躇もないが、根拠のないいいかがりにまで謝罪しなければならないいわれはないのだ。
 したがって、謝らなければならないことには、何度も謝っているが、その度ごとに、韓国が、その謝罪を一旦受け入れたあと、反故にするということを繰り返してきたにすぎない。それを「反省しない」は、いったいどちらが反省していないのか?。
 この記事でもまたドイツとポーランドと比較しているが、ドイツがポーランドに侵攻して第二次大戦が始まったのだ。韓国は、戦争が始まる遥か前から日本の属国だったのであって、第二次大戦中は、日本の側で戦っていたのである。現に特攻隊に志願して死んだ韓国人も多くいた。日本と韓国は共に戦ったのであって、ドイツとポーランドとは真逆である。日本が韓国に謝らなければならない理由はない。
 しかし、慰安婦問題の政治利用に関しては、韓国人自身が確信犯的なのは間違いないのだ。ここに書いたようなことは、韓国人も当然、言われるまでもないと腹のなかで笑っているだろう。
 ニューズウィーク日本版が4週にわたって、これに関する問題を集中連載したことがあった。そのとき、パネラーとして参加していた日本人留学生の「これは政治利用ではないのか」という問いに対して、韓国人の留学生が「多かれ少なかれ、すべての国が政治利用できるものはするものですよ」と、答えた。その日本人留学生は絶句していた。

 だからまあ、こんな問題をハンドリングできない日本の外交関係者が無能だというべきなんだろう。今回の事の発端は、レーダー照射問題なのである。これは、軍事機密の問題で公開できないだけで、韓国に非があることははっきりしているのだろう。しかし、これについて、日本は韓国を非難したわけではなかった。納得のいく説明と再発防止の約束があればそれで済んだはずだが、韓国はそれさえしなかった。よくそれで「日本は反省しない」とか言えるものなのだが、それどころか、またしても慰安婦問題を持ち出して、今度は「天皇に謝罪させろ」とふっかけたわけである。日本の政府はこれを無視しとけばよかったんだが、結局誘いに乗って、安倍首相がこれについて何か発言したらしい。韓国にしてみればしめしめである。早速、「安倍首相まで出てきたのは納得できない」とかえした。これで、レーダー照射問題はうやむやになった。
 今までもこの調子だったが、これからもこの調子に決まってる。
 だから、韓国とは距離を置くしかない。
六カ国協議の段階で、北朝鮮と和解すべきだったんだが、もう遅いのでしょうがない。とにかく、そのためには、中ロ、ASEAN諸国、そして、EPAが発足したEUと関係を深めていかなければならないだろう。そのためには、北方四島なんてどうでもいいんで、ロシアとの国交を正常化して、日本、ロシア、EUのシベリア経済圏を作る努力が必要だと思う。トランプ大統領は再選に向けて、何か手柄が欲しいはずだから、ここで、日露国交回復の手柄をチラつかせれば、日米安保で譲歩くらいするかもしれない。北方四島にこだわってチャンスを逃さないでくれよ。いらねんだからあんな島。

福田和也の『江藤淳という人』を読みました

江藤淳という人

江藤淳という人

 「江藤淳氏と文学の悪」の章とそれをめぐるさまざまなことについての文章が特に面白かった。
 先に、福田和也が編んだ『江藤淳コレクション』で、「小林秀雄と私」を読んでいるので、ある程度は、福田和也の目で江藤淳を見ているのかもしれないと思わぬでもない。
 『成熟と喪失』の文庫版あとがきで、上野千鶴子も「治者」という自己規定についてふれていたけれど、福田和也の見方の方が、もっと深く入り込んでいると思った。
 上野千鶴子は«、" 「『治者』の不幸」を引き受けようという男の悲壮な覚悟は、そこではひとりよがりの喜劇に転落する" と書いていた。しかし、それでもそれを引き受けざるえない宿命はやはりありうる。
 江藤淳福田和也のふたりで鎌倉で食事したあと、店に頼んでいたハイヤーがなかなか来ない。そういう場合、いろいろな態度がとりうると思う。店のドアを開けて「来ないよ」とまた呼んでもらうとか。でも、江藤淳の場合は、店には何も言わず、駅まで歩いて江ノ電で帰ってしまう。
 それは、原稿を、いつも、一字の直しもない、完全な原稿で入稿していた江藤淳のとるべき態度として、さもありなんと思う。
 三島由紀夫が自決したときの江藤淳小林秀雄との対話は、たしかに、小林秀雄についてもう一度考えさせられた。
 いま、東京都美術館で「奇想の系譜」という展覧会がやっている、前後期にわかれているので、展示替えの後、また行こうと思っているが、その「系譜」のなかに、なぜか白隠もまぜられている。白隠は、奇想というまえに禅僧だから、禅宗じたいがすでに奇想といえば奇想なのだ。
 禅僧の絵では、仙がいの明るさが好きだが、白隠のはったりは嫌い。なかでも今回の展示では、≪大燈国師像≫があった。江藤淳の『近代以前』で、恩愛の念を断ち切るためにわが子を殺して妻の目の前で焼いて食ったと書かれている、あの大燈国師。いかにも白隠が画題に選びそう。
 浄土真宗門徒は、とっくにこういう聖性を止揚している。止揚であって否定しているのではないので、ここに立ち戻ることはない。否定し拒否しているだけなら、ここに戻ることがあるかもしれない。林羅山の大燈国師批判はその意味では不徹底なんだと思う。
 たしかに、江藤淳はニヒリストではない。そんな斜に構えたよわよわしい批評家ではない。にもかかわらず「信」というしかない何かを欠いているという批判は、江藤淳のどこかを突いたのかもしれない。

『ファースト・マン』

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 デイミアン・チャゼル監督、ライアン・ゴズリング主演の『ファースト・マン』を観た。これはオススメ。
 MX4Dもあったけど、私は通常ので観た。まあ、たぶんジェットコースターとか平気な人は、MX4Dで観ても楽しめるだろうと思う。
 『ボヘミアン・ラプソディー』はとうとう100億円を超えたそう。あの映画を観た時も、クイーンも、フレディ・マーキュリーも、ボヘミアン・ラプソディーもリアルタイムで知っていたし、アルバムも持っていたにもかかわらず、「あ、こういうことだったんだ!」っつう「目からうろこ」の体験をしたわけだけれど、この『ファースト・マン』も、ニール・アームストロングって人が、人類初の月面着陸に成功したってことは知ってるし、その前には、三人のパイロットが火災で焼け死んだってことも知ってはいたけれど、知識で知ってるってことと、映画で観ることは、また別で、よい映画は「体験」と呼びたくなることを提供してくれる。
 宇宙開発を描いた映画は『アポロ13』もそうだし、

『ドリーム』でも、

宇宙飛行の過酷さを描いていたわけだけれど、今回の『ファースト・マン』ほど、フィジカルにこたえる描き方はされてこなかったと思う。もし、これをMX4Dで観てたらたぶん腰をいわしてたわ。
 これを『ラ・ラ・ランド』の監督と主演男優でやってる、

そのふり幅が面白い。私は、ライアン・ゴズリングといえば『ドライブ』を思い出してしまうので、

その意味では、『ラ・ラ・ランド』より、こちらの方がしっくりくるかもしれない。
 この映画は、『ダンケルク』のクリストファー・ノーラン監督が褒めとりました。

 ニューズウイーク日本版を読んでたら、『ビールストリートの恋人たち』のバリー・ジェンキンス監督のインタビューがあった。トロント映画祭で、彼とデイミアン・チャゼル監督が同じスタジオですれ違ったんだって。そしたら、取材陣があわてて写真を撮り始めた。「そうか、顔を合わせるのは初めてなんだと二人とも気が付いてハグをした」んだそうだ。
 この二人が、これからのハリウッドを引っ張っていく存在になると、そう思われてるみたいですね。