小倉遊亀

 平塚市美術館で小倉遊亀展が開かれている。滋賀県立美術館の所蔵品がだいぶ展示されているみたい。滋賀県立美術館には関西在住の頃はよく訪ねた。アメリカのポストモダンの絵と、それから何と言っても小倉遊亀のコレクションが充実していた記憶があるのに、ニュースによると2017年4月に施設の老朽化で閉館し、2020年までに改修再開する予定だったのが、入札が不調で再開のめどが立たないそうで、あの小倉遊亀のコレクションはどうなっているのか心配している。
  日本画の女流画家といえば、上村松園小倉遊亀秋野不矩と名前が浮かぶが、この中では、小倉遊亀の女が一番セクシーだと思う。日本の女流画家で初めて裸婦を描いたのが小倉遊亀だそうだ。
 しかし、そもそも日本画で女を描くとき、鈴木春信、喜多川歌麿、歌川国貞、葛飾北斎、と女の絵をたどってみても、明治に入って、月岡芳年鏑木清方伊東深水と思い返してみても、女の体の重さ、量感を捉えた絵があったかというとどうだろうか。ないと思う。
 実は、油絵の方を探してもいないかもしれない。敢えて比較すれば、岸田劉生になるのだろうか。油絵は日本に入ってきた当初から「立体的に描きうる表現法」だと捉えられたために、そこは基本的なこととして通り過ぎてしまったのではないか。その後、印象派、フォービズム、キュビズムと、どう見るかよりも、どう描くか、抽象作品などの場合はそもそも対象に向き合うことすらないわけだから、今までに見たことのないもの、誰も作らなかったものをどうやったら表出できるかに全てがかかっていて、対象を感受するオリジナリティーの方は閑却されてきたと思う。
 結果として、今の現代芸術、コンセプチュアルな作品が人の心に届いているかどうかはかなり疑わしいのではないか。退屈としか言いようのない作品が増えてきつつあるのではないかとも思える。
 それはまあ余談としてひとまずおいても、たとえば小倉遊亀が1948年に描いた《婦女》というこの絵、

について
「今年の春博物館で龍猛菩薩を拝観したとき私は異常な感激を覚えた。内に燃える信仰を持ち、外に至高な技量をそなえた、あの頃の画人の眼は深い所へとどいていると思った。あれは菩薩像ではあろうけれど、たとえば遊女を描いてもあそこへ行くのがほんとうだ、と思った。私はおこがましくもあの菩薩像に懸想した思いで、現代の婦女が描いてみたくなったのである。」
 いにしえの画人が描いた菩薩像に感動して、これで現代女性が描けなくてはウソだと、小倉遊亀は思う。
「『出来ない』と思って取りかかりたくなかった。対象への深い愛着さえあれば出来ると信じたかった。」
「艶やかで清楚で、ふっくらと女らしく、ある妖しさもあって、その上キリッと引き締まった上品さもある・・・まあ果実でいえば白桃のような味なのであるが。」
「画面をつくる必要上、裾をひいた婦女にした。仏画のように、中央にどっしりと坐らせた。生きた人間であるから生々と、坐っていてもどこかに動きがなくてはならない。眼をかがやかせて白桃の入っている美しい鉢をみていてくれなくては困るのである。
(『三彩』24号 1948年11月)
 1948年といえば、日本はまだアメリカの占領下。天皇がどうの、軍部がどうの、民主主義がどうの、と、世間が騒いでいるときに、この「白桃」のような婦女がいにしえの画人の菩薩像のように描けるかどうかに挑んでいた画家。
 小倉遊亀は105歳まで生きたのであるが、99歳の時に阿川佐和子がインタビューした。

安田靫彦に弟子入りした時の話。
「つまり 、死装束ですね 。その時は 、先生にご門前払いを食ったら 、私はもう絵はやめようと 。絵で生きるか死ぬかっていう気持ちで行きました 。六月二十八日です 。大きな梅の木が塀の外まで枝を伸ばして 、実がたくさんなっていましたね 。」
「五分で結構ですからお尋ねしたいと申しました 。やっと通された部屋は 、西日が入るのでスダレが縁側の向こうに掛けてありました 。水色の麻の座布団が二つ 。しばらくすると先生が入ってらした 。暑い日でしたが 、セルの着物にセルの羽織を召していらっしゃいましたね 。」
 阿川佐和子も驚いているが、この人は何か違う。結婚もユニークで、彼女が43歳のとき、当時74歳だった小林鉄樹てふ、山岡鉄舟(!)の弟子と結婚した。今の43歳とはわけが違う。たぶん74歳はもっと違う。阿川佐和子も晩婚だったが。
 週刊文春に連載しているこのインタビューの最後には、阿川佐和子の「一筆御礼」というあとがきがある。まとめられた本にも掲載されている。そこには
「・・・インタビュア ー泣かせな方と思わず苦笑してしまいました 。考えてみれば私の二 ・五倍の人生経験をしておいでなのですから 、若輩者の私がどんなに意気込んだところで 、すっかりお見通しなのですね 。」
と、「インタビュアー泣かせ」と書いてあるが、他のところで書いているものをよむと、このインタビューのあと、阿川佐和子は実際に号泣したそうだ。15分ほど話しただけで引っ込んでしまったそうなんだが、でも、99歳ならそれで当然だという気もする。阿川佐和子自身の中では、心折れる何かがあったのだろう。本になったものを読む限りでは、インタビューとしては全然成立している。阿川佐和子の歯が立っていないのは、確かにわかるが、相手はただ者じゃない。小倉遊亀なんだから。


『日日是好日』

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 図らずも樹木希林追悼といった趣になった『日日是好日』を観た。
 黒木華の演じる女性が20歳のときにお茶を習うようになる。そのお茶の先生を演じているのが樹木希林。それから20年以上ずっとその先生のところに通い続けるって話。
 こういうクロニクル形式の映画は、あったかなかったか、ありそうでなさそうで、ちょっと今は思いつかない。舞台はほとんど樹木希林のお茶室に限定される。ときどき鎌倉の海岸とか、三渓園とか、主人公の住処なんかは出てくるのだけれど、かといって、お茶室だけに絞り込むみたいなチャレンジングなことをしていないところも鼻につかなくてかえって良い。
 たしかに、そういう描き方もなくはなかっただろう。習い始めた頃、就職するころ、男とごたごたする頃、をすべて茶会の会話だけで成立させるっていう、三谷幸喜好みなセリフ劇にしても成立するとは思うが、そういうミニマリズムはすこし息苦しくなるかもしれない。
 そもそもやってもないことを妄想して批判してもしょうがないんだが、井伏鱒二の『鞆ノ津茶会記』を思い出して、そういえばあれは、お茶席からだけ戦国時代を描いた面白い小説だったなと思って、小説だとそういう行き方もたしかにあったと思うが、映画だし。しかし、80年代から今までっていう時代の流れは、信長も秀吉も、利休も古田織部もいないものの、それはそれで、たしかにすごい変遷の時代だったなと感慨にふけった。
 お茶ってのは、今の私たちにとっては、日常的なものではないと思う。まあ、『へうげもの』のヒット以来「茶ガール」とか言って流行っているとは漏れ聞いているが、まだまだ非日常的なことだと思う。が、いったん中を覗いてみると、やってることは、日常以上に日常的。茶禅一味と言われる禅の修行もそういうところがある。
 そう思ってみて、不思議なところは、この映画はほとんど女性しか出てこない。千利休の頃は、お茶席に女性が入ることすらできなかったはずなのに、お茶が、いつのまにか、女性のサロンのようになっているのが面白かった。
 七代目尾形乾山を継いだという意味で、お茶と無関係とも言えないバーナード・リーチがどこかで書いていたことだが、日本にいて寂しく思うことは、女性と話ができないことなのだそうだ。これは、セクシュアル・インターコースとか恋愛とかではなく、ちょっとした知的会話ができない。
 もちろん、長いこと日本に暮らしているバーナード・リーチのことだから、日本女性に偏見があってこういうことを言うのではなく、成人男性と成人女性が会話を楽しめるそういう場が日本には欠けているってことを言ってるんだろう。日本での生活が長いバーナード・リーチだからこそ気がつく事だと思う。
 それは女性の立場に立ってみれば「抑圧」以外のなにものでもないわけで、少なくとも明治以降、お茶が果たしてきた役割は、女性たちにそういうコミュニケーションの場を提供するってことが大きかったのではないかと、改めて思った。この映画を見ていて、今はもう逆に、この場に男としての自分が闖入していく勇気はとても持てないと思った。
 すこし脱線するけれど、他の人があまり書かないだろうことを書いておくことにすると、水野年方という、月岡芳年の弟子で、鏑木清方の師匠という浮世絵師がいた。この人が、「茶の湯具艸」という続き物の浮世絵を描いている。その序に「茶の湯は禅より出でて礼学の一となり、貴賎となく嗜みて修むに至る。されば画家年方、茶の湯を学ぶ婦女子のための手引きとなるべき図絵を描き・・・云々」とある。年方は明治36年には亡くなっているので、遅くともその頃にはもう茶の湯は婦女子のものになっていたようだ。

 幕末の文人たちにとっては、茶といえば煎茶だった。田能村竹田が青木木米を描いた《木米喫茶図》

を見ると、煎茶用の涼炉が描かれている。上野の東京国立博物館で青木木米作の涼炉と土瓶を観たことがある。あれだったのかもしれない。

 ところが、明治39年に、岡倉天心が英語で『茶の本』を書いた、その茶に煎茶が含まれていたかどうか。江戸の文化を支えた文人のネットワークが、明治維新で消滅してしまう。それがなぜか、お茶、お花、お琴、など、女性たちを担い手として復活したのがどうにも不思議だ。
 それはともかく、ただただお茶の稽古をしているだけの映画を成立させているのは、樹木希林黒木華のたたずまいである。普通のことを言っているだけのセリフなのに、どうしてこう人となりを感じさせるのかっていう。桃井かおり松岡茉優ならどうなったかとか、風吹ジュン綾瀬はるかならどうかとか、あれこれ、これまたありもしないことを妄想しても楽しめる。
 それにしても、日本映画は低予算が得意。「侘びた風情」という意味で、お茶の世界に通じるのかもしれない。
 ちなみに、根津美術館のお茶の展示室は、もう名残の茶になっていた。瓢型の振出という陶器がなんともステキだった。あの展示室だけでも写真を撮らせてもらえないものかなと思うが不粋だろうか。

『吉本隆明 江藤淳 全対話』

吉本隆明 江藤淳 全対話 (中公文庫)

吉本隆明 江藤淳 全対話 (中公文庫)

 江藤淳の「奴隷の思想を廃す」っていう文章を読んで感動したので、この対談集を買って読んでみた。「全対話」と言いつつ、1965年から1988年までの間に、たった5回なのが、かえって、時代の変遷を感じられてよい。
 江藤淳の『夏目漱石』は、ごく若い時に読んで感銘を受けた。でも、昔すぎて、どう感銘を受けたか憶えてないのが残念だけど、それからしばらくして、『小林秀雄』を読もうとしたら、文庫本の字が小さくて、古本で買ったからだと思うけど、昔は、この字で読んでたはずだけどと思いつつも、ちょっと無理だわと放り出しちゃった、まだ老眼にもなってなかったんだけど。正直言って、その頃には、小林秀雄が十分に嫌いになっていたので、気が進まなかったこともある。
 それが、こないだ小熊英二の『民主と愛国』を読んで、「江藤淳面白いわ」ってなって、また興味が湧いてきた。
 「奴隷の思想を廃す」は、芸術至上主義は、芸術の価値とその他の価値に違いを認める態度だから、価値そのものについての思考はそこで停止することになる。「こっちはこっちの価値観があるからほっといてくれ」で、はたしていいのか、そうやって社会の価値から切り離された「芸術の価値」という態度は、芸術を痩せ細らせるだけじゃないのかってことを言っていると読んだ。
 そういう考え方は、一方では、政治とか権力の芸術に対する介入という、暴力の記憶を喚起してしまうわけだが、しかし、それを惧れるあまりフェチズムに閉じこもっていいのかっていう、根源的な問いな訳だった。
 こういう根源的な問いが江藤淳を「右派」に見せてしまうのだろうと思う。一方で、吉本隆明は「左派」と思われてるのかもしれない。しかし、このふたりの対話を読んでいると、そういう左右といった対立項の立て方が、いかにも幼稚に見えてくる。そういうことはどうでもいいと思わせる、視野の高さと広さがこのふたりの対話にはある。
 長い月日のうちのたった5回の対話なので、時代によって空気が違って興味深い。最初の対話はまだ60年代なので、吉本隆明は、武装解除していない気配がする。トゲトゲしいとかいうことではないのだが、どこか気配が鋭い。この頃は、江藤淳の方から「あなたの影響力が大きいものだから、吉本神話のごときものができつつあると思う。」と言っている。そして「その拘束は、ちょうどきつい上着のように、吉本さんという自由な存在を締めつけはじめている。」とも。
 これはまあこの時代の雰囲気として、先日紹介した坂本龍一の回想にもあったように、今からは想像できないほどのものがあったと思う。その雰囲気はこの回の対談には出ているように思う。
 そのあと、1970年に、主に、夏目漱石についての対談、夏目漱石については両者とも著作があるので深くて面白い、それと、勝海舟についての対談、夏目漱石勝海舟は、日本の近代化を考えるときに、見逃せない人格だと思う、この二つの対談があって、1982年の対談になると、1965年とは逆に、江藤淳の方が攻撃的になっている、それがすごく面白い。時代の変遷という観点からも面白いが、攻守が交代しても、いい試合をするってところが面白い。核心を突いてしまうってところがあるんだと思う。
 1982年の対談では、むしろ、江藤淳が政治に関わる仕事が多くなっているのを、吉本隆明が心配して、その時の政策担当者が変われば消えてしまうような仕事じゃなくて、もっと、永続的な価値のある仕事をした方がいいんじゃないかなというと、
「うかがっていて、吉本さんもずいぶん楽観的だなと思いましたね。吉本さんは私の仕事についてつまらぬことにかまけていると言われますが、私の今やっていることはなんら政策科学的な提言などではありませんよ。そんなものに熱中できるわけがない。私はこれが私にとっての文学だからやっているのです。そうでなければこんなに身を入れてやりはしませんよ。ぼくは結局自分が言葉によって生きている人間であることを、日夜痛感しています。だからこそ、言葉を拘束しているものの正体を見定めたいのです。」
 ここからのこのふたりの対話は10ページくらいに渡って全部書き写していきたいくらいだけど、それはもちろんやらない。この時の江藤淳の危機感は、たしかに「文学」だと思う。
「私がなぜこんなことをしているのか、それは結果的にある持続を確かめたいからです。つまりズバリと何か言えばすぐピーンと通るようなそういう公明正大な知的空間を再建したいと私は思っているのです。」
と、江藤淳は言っているんだけれど、今も昔もそんな「公明正大な知的空間」なんてあったの?、と私は思ってしまう。そういう江藤淳の態度はたしかに楽観的ではないけれど、夢想的に見えるがどうなんだろうか。
 吉本隆明が、日本って国は100年くらいでなくなるかもしれないが、人間は100年でなくなることはないだろう、みたいなことを言うと、江藤淳は、100年どころか、日本は80年くらいでなくなってしまうかもしれない。で、その時どうなるか、日本という国がなくなって、人間が残るのか、そうじゃない、残るのは「人種」だと言う。アメリカやヨーロッパでは、実際に国を失くした難民がいっぱいいるが、彼らは「人間」と見られるか?。そうじゃない、まず「人種」として見られる。それから自分たちが「人間」だという証明をしていかなければならなくなるんだと言うんです。
 実際にアメリカでの生活を経験している江藤淳のこの指摘は鋭いが、吉本隆明の論点とはズレてる気がする。で、そのあと、吉本隆明は、少し違う切り口から話を戻していくのだけれど、その辺も読み応えがある。
 ただ、この辺の江藤淳の問題意識は、まっとうな意味で「保守的」と言うべきものだと思う。それでも、彼自身がそう言っているように、これは「文学」だ。それもまた非常に厳密な意味で、それこそ「公明正大な知的空間」の中でそう言えることだろう。こういう鋭敏な言語感覚がこの人を保守的にするんだと思う。
 最後の1988年の対談の江藤淳からは、1982年のときの取り憑かれたような感じは消えている。1965年の吉本隆明の尖った感じとかと同じく、そういう感じは永続しないものなんだ。でも、この対談集は、このふたりの評論家が、いわば「時代と寝た」痕跡がはっきりと残っているっていう意味ですっごく面白い。1965年の対談でも、「他者を受けとめることなしには、やはり複数の思想というのは生じないだろうと思います。」という吉本隆明に、江藤淳は「私も同じように考えるのです。さっきから言ったように、一回ころがされて、その反動で相手を投げる。世間を拒絶しない。そうでなければ、人と共有できるものの考え方はできないというのは本当に同感です。」と応じている。
 こういう言論が生存する言語空間は、たしかになくなっているのかもしれない。少なくとも今のマスコミに、そういう空間を提供する気がないのは間違いないようだし。

『響 -HIBIKI-』

 『響 -HIBIKI-』は、後ろにローマ字をつけないと「え?、なんて読むの」って感じになるし、下手するとそもそも読みさえせずにスルーされるって事でこういうタイトルになったんだろうと思うが、平手友梨奈っていう、欅坂46のメンバーが主役だったりして、その辺で粗製乱造されてる壁ドン映画と混同されて、そういうあたりを回避している映画ファンが見逃していたら残念だと思う。
 平手友梨奈が演じている鮎喰響って高校生が天才作家なんだ。そこはもうファンタジーでいいんだ。たとえば、天才的大ドロボーとか、天才的ガンマンとか、天才的スパイとか、そういうのが存在しますよってとこから、映画が始まるので、あとは、その造形がどれだけ魅力的かってことにかかってくるわけだけど、平手友梨奈の響には、なかなかドキドキさせられる。
 西部劇にたとえて言えば、登場するやいなや、観客の期待よりはるか先に、酒場で格闘が始まり、見事なガン捌きを見せつけられるってことが大事なわけ。映画なんてたった2時間しかないんだから、ラストのオチのために伏線張ったんだなぁとか、辻褄合わせようとしてるなぁとか、そういうの要らないから、『オーシャンズ8』の中の人、そういうことだから。
 響のスーパーさは、文系のワンダーウーマンって感じ。ホントはありえないんだけど、それは、でも、寅さんだって同じなのよ。フーテンの寅さんだって、あんな人ホントはいるわけないんだけど、こういうことを言うと、「でも、もしかしたらいるかも」って反発が湧いてくるでしょ?。それがファンタジーの力なんです。
 響みたいな天才少女がいるかもって思わせる、そのひとつの背景は、これもまた寅さんの、おいちゃん、おばちゃん、タコ社長、さくら、ひろし、などなど、まわりの登場人物がこころにくいほどリアルなのと同じで、以下、役者の名前で書くけど、北川景子黒田大輔の編集者コンビがいいでしょ、柳楽優弥の新人作家がいいでしょ、北村有起哉芥川賞作家がいいでしょ、不良文芸部員の笠松将がいいでしょ、売れない作家の小栗旬がいいでしょ。言ってったらキリがないんだけど、この人たちのディテールがすごく作り込んであって泣ける。内田慈がちょっと出るんだ、なんかこう山田詠美的な、内田春菊的な、そこまで売れてないかもしれない作家の役なんだけど、そこも丁寧に作り込んでて侮れないって気持ちになった。
 唯一、人物造形としてどうかなと思ったのは、響を付け狙うパパラッチ役の野間口徹は類型的かなと思ったけど、彼は響の、いわば仇役なので、響と同じく彼もファンタジーなんで、この人はリアルに描くわけにいかなかったのは、むしろ当然。だから、彼は逆に、もっとありえなくてよかったかなと思う。でも、そういう彼でさえ、トラックの運転手と絡むあたりのコミカルさは秀逸だったりする。
 売れっ子作家の吉田栄作、編集長の高嶋政伸は手馴れたもんだし、けっこうな数の登場人物を印象的で無駄のないカットでつないでいく月川翔って監督は大したもんだと思った。
 それに、アヤカ・ウイルソンが演じている響の高校の文芸部の一年先輩で、しかも、売れっ子作家の吉田栄作の娘って役どころが、響の作家としての生活と高校生としての生活をうまく繋ぐ存在になっている。もちろん、原作がうまいんだろうけど、原作がいいからいい映画になるとは限らないわけで、ここはやっぱり監督が見事だって言っていいんだと思う。
 ガル・ガドットの『ワンダーウーマン』が、第一次世界大戦を舞台にして大成功したじゃないですか?。あの感じに似てる。
 ちょっと曲がり角に来てるのかな、停滞気味なのかなっていう文壇に、突然ワンダーウーマンが降臨したらって、そういう痛快感が勝因なんだと思う。響はワンダーウーマンだし、任侠映画健さんだしってことだと思う。
 それから、『愛しのアイリーン』で愛子さんを演じてた河井青葉さんが豊増幸役で出てました。一瞬だけど、こういうあたりもキャスティングにスキがないなぁ。
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「大人はすべて敵」

 日経スタイルに坂本龍一のインタビュー記事があった。
 そのなかに、「今の僕があるのは大島監督のおかげです。葬儀で弔辞を読んだのも、親族やマネジャーなどの『身内』を除けば、大島監督だけ。」
と言い、そして
「当時、大人はすべて敵だと思っていましたが、大島監督と評論家の吉本隆明さんだけは例外。この2人は僕が憧れる『格好いい大人』でした」
と言っている。ここで「当時」と言っているのは坂本龍一がまだ高校生だった60年代のこと。
 この「大人はすべて敵」という彼の精神的な態度については、いつだったか、 お正月にだけ流されるサッポロビールのCMの、妻夫木聡がいろんな大人にインタビューする「大人エレベーター」というのに坂本龍一が出ていて、若い頃のエピソードで、細野晴臣に「とにかくいったん‘カタナ’を置いてくれ」と言われたことがあると告白していた。とにかく尖っていたそうなのである。

 坂本龍一が、全共闘世代とひとくくりに語られるのをよしとするかどうか分からないが、「大人はすべて敵」という感覚が、全共闘世代の多くに共有されていた共通認識であったとしても不思議はない。しかし、「大人はすべて敵」が、全共闘世代だけの特殊な態度だったかといえば、どうなんだろうか?。自分のことを思い出しても、その後の世代でも、しばらくは更新されることなく常識として受け継がれてきていたと思える。
 たとえば尾崎豊の世代にとって「大人はすべて敵」という全共闘世代の感覚に共感できないかというと、少なくとも反発は感じないと思うのだ。
 しかし、今の若い世代が「大人はすべて敵」と思っているかと言えば、とてもそうは思えない。もしそうだとしたら、その感覚はいつなくなったかだが、いずれにせよ、それが全共闘世代の後の世代まで残っていたとしても、全共闘世代の熱量そのままであり続けたとはやはり言えないだろう。
 全共闘世代は、大学を封鎖し、教授室に乱入し、敵対する学生を殴り殺していた。それほどまでの怒りについてまで、後の世代に理解できるかといえば、それは難しいのではないか。しかし、今の彼らがどう考えているか知らないが、後年になって、指名手配されていた当時の学生運動家が逮捕されたのをニュースで知ったとき、かつての仲間達、今はけっこう高い社会的地位にいる人たちが逃亡の手助けをしていたと知って意外に思ったことがあった。「大人はすべて敵」は、その結末がどうあろうと、彼ら自身にとっては、実際に質量のある観念だったと思ったことだった。
 よく目にする「若者の右傾化」については、私はまったく信じていない。まず、そもそも、右、左という分類自体に意味があると思っていない。安田浩一の『右翼の戦後史』を読んで確信したことは、近代以降のさまざまな新しい思想や運動に対する反知性的反発として右翼があり、そして、彼らが自分たちの反発するすべてを一緒くたに「左翼」と呼んだにすぎなかった。右、左、などという、ありもしないそんな分類を「左翼」と呼ばれた側も受け入れたのであれば、彼ら自身もまた「反知性的」だったというまでである。なので、「世の中が右傾化している」などと言ってみたところで、それで何を言っていることにもならない。
 ただ、「大人はすべて敵」と思っている若者は減ったとは言えるのではないかと、坂本龍一のインタビュー記事を読んでいて思った。生態学的な世代間闘争のような、生物的な現象を指して「大人はすべて敵」と言っているわけではないとしたら、「大人はすべて敵」と思っていた世代がとっくに大人になった今、60年代の若者たちが「敵」だと思っていた「大人」と言われた彼らはどこに行ったのか?。この敵の正体は、「右傾化」などという言葉ではあらわにすることができないだけでなく、むしろ、その正体を隠蔽することにしかならないと私には思える。ましてや、「安倍応援団」などという言葉は、それ自体の「反知性」で、それを発する人の信頼を失わせるだけだろう。
 もう一点は、「大人はすべて敵」と感じていた全共闘世代は、実は特権的な存在だったいうことがある。東京だけ、といえば言い過ぎなのかもしれないが、少なくとも、彼らの生息するのは大都市でなければならなかったはずだし、当時の進学率を考えると、大学に進学する若者は、少数派という言葉では足りず、やはり、特権的というしかない存在だったのである。だからこそ「選良」という意識が彼らをそうした運動に駆り立てたとも言える。
 その後、大学は急速に大衆化していき、「思想」と「運動」に「合コン」と「ミスコン」がとってかわる。全共闘世代は、その転換期にいたというべきだろう。もし、彼らが真に「選良」だったとしたら、社会の変革を担うのは当然なのだし、その本質が「大人はすべて敵」では幼稚すぎた。その幼稚さが、やがて、「合コン」と「ミスコン」の大学生活に変容していくのは自然な流れだっただろう。「選良」であることを辞めた大学生にとって「大人はすべて敵」は、自堕落な学生生活を口実として支えるポーズにすぎなかった。
 そういう状況に対する反発として、小林よしのり西部邁の言説があるわけで、それを「右傾化」と呼称して放り出してしまうことは、今、社会の中核を担っている全共闘世代にそれをいう権利があるかということに疑問を呈することはできるだろう。
 小熊英二の『民主と愛国』で知ったが、彼らは丸山眞男の教授室も占拠した。見当違いもはなはだしいと思うが、吉本隆明は、そういう彼らを擁護したのだった。
 「大人はすべて敵」という感覚は、実際には、吉本隆明の世代こそ共有していたのではないか。全共闘世代のように、特権的な一部の層に共有されたというのではなく、ほんとうに世代全体を貫いて「大人はすべて敵」と口にする権利があったのは、戦争に青春のすべてを奪われた、吉本隆明の世代ではなかったかと思う。
 吉本隆明は、小津安二郎の、いわゆる紀子三部作の第1作、1949年に封切られた『晩春』の紀子とほぼ同じ歳である。ひとつ違うか違わないか。『晩春』の紀子の目に宿る憎しみ、怨嗟の表情は、その後の『麦秋』、『東京物語』の紀子には見られない。60年安保が広い共感を得られたのは、学生だけではなく、その上の世代の共感を得られたからこそのはずだった。
 「大人はすべて敵」は、そうした世代にとって、実際に手応えのある観念だったと思う。池に投げ込む石のように、社会にその観念を投げ込めば、実際に波紋が広がる、そういう観念だった。だから、それは実際に社会を巻き込む運動になった。だが、そこには現在の実感があっただけで、未来を描く理想はなかった。今そこにあるものは確かだったが、今はない未来にあるべきものは何も見えていなかった。
 全共闘世代の大学生は「選良」となるべくそこにいたのだし、「選良」にならなければならない存在だったが、そうした選良意識を拒んで、むしろ大衆と化すことを望んだ。なぜなら、そうした選良の権化の惹き起こした醜悪な戦争の記憶がまだ鮮やかである時代に、全共闘世代の若者が選良となることを皮膚感覚で拒否したことはあると思う。吉本隆明は「大衆の原像」ということを言ったのだし、高橋和巳も下降志向の人だった。
 そうして、彼らが「選良」を拒んだことで、現実の政治は誰が担うことになったか。それが族議員と保身官僚というなら話は簡単だが、そういうことよりも、学生運動の挫折は、政治の現場と大衆を結びつけるシステムを消滅させた。
 日本会議創価学会のような特殊な宗教団体が自分たちの意見を政治に反映できるのに、その他の一般的な国民が自分の意見を政治に反映できるチャンネルがないというのは全くいびつな状況だと思う。やはり韓国やアメリカのように二大政党が対立しあっているのが民主選挙にとって健全な状態だと思う。
 その意味では、沖縄の米軍基地移転を反故にした鳩山由紀夫は、日本の民主主義を壊したと言えるだろう。国民が圧倒的に支持した政策を実現できないだけでなく、実現する努力すらしないとなれば、民主選挙が形骸化するのは当然だった。この瓦礫から民主主義がどうやって立ち直るのか、途方もない気がする。

『声めぐり』

声めぐり

声めぐり

 こないだこの人の『異なり記念日』を読んで、同時に刊行されているこの本があると知ったので、これは読んでみなくてはと。

 前も書いた通り、ジャック・デリダフッサール現象学について書いた『声と現象』を読みつつ、この人の本を読み、また写真を見ていると、すごく刺激的で興味深い。
 
 『声と現象』には「・・・声がなければ、どんな意識も可能ではないのだ。声は、普遍性の形式において、意識(共通のcon - 認識science)として、自己のもとにある存在である。声は、意識である。」とある。
 
 しかし、とても、興味深いのだけれど、斎藤陽道さんは、補聴器をつけて聴者として暮らそうとした中学までの記憶がほとんどすっかり失われている。にもかかわらず、ろう学校に進み手話を憶えて「見違えるほど饒舌に」なり、徐々に過去と再会し始める。

 こういう話を聴くと、「声とは何か」と考えてしまう。聴者が「声」と呼んでいるものにこだわっている時、この人はほとんど意識を失っていたように見える。ところが、聴者が「声」と呼んでいるものと訣別する事で、ようやく意識を取り戻したように見える。

 斎藤陽道さんは、たぶん、今いちばん注目されている新進のカメラマンだから、写真の原体験についての話も面白い。手話を学ぶまでは、自身の写真を見るのさえ苦痛だったそうだ。それが自分だということさまったく思い出せないから。親に、これが自分だと見せられる写真にまったく見覚えがなければ、気色悪いに違いない。一時期はドッペルゲンガーだと本気で思っていたそうだ。

 声について意識的でいないで済む聴者は、「思い出す」ということについても、突き詰めて意識的であることは少ないと思う。中学までの自分についての記憶がごっそり抜け落ちている。そして、自分の写真を見てもそれがドッペルゲンガーとしか思えない。そういう人が、手話という「声」を獲得してから取り組み始めた(実際には中学の頃に「写るんです」で撮り始めていたそうだが)写真は、やっぱり厚みが違う。

 そういうサイドストーリーがそう見せるのかと疑ってみてもよいと思うが、でも、やっぱり違う。

 19世紀のヨーロッパで、絵画を写真的な写実から引きはがしたのはジャポニズムだった。中国の絵画も、西洋の人が伝統的に慣れ親しんできた絵画とは、技法も発想もまったく違うものだったには違いないが、たぶん、そうした中国の絵画と浮世絵の大きな違いは、その「親密さ」にあったのだろう。浮世絵に描かれている、江戸という大都市に生きる庶民の日常、自分たちと同じような都市生活者が描かれていたからこそ、浮世絵は、西洋絵画に大きな影響を及ぼした。浮世絵は「絵画=写実」という迷信を捨てさせた。

 そうして、絵画が写実を離れたことで、もうひとつのpictureである写真もまた絵画を離れた。ピクトリアリズム(絵画主義)の写真くらい退屈な写真はない。斎藤陽道さんの写真には、いわゆる「日の丸構図」が多いそうだ。わたしらシロウトは、写真を撮る時、つい日の丸構図を避けようとしてしまうが、その発想は、ピクトリアリズムの名残にすぎないだろうと思う。

 写真は絵じゃない。斎藤陽道さんは「写真」という言葉より「光画」という古い言葉の方がむしろしっくりくるのではないかと書いていた。

 それでまた、ジャック・デリダの『声と現象』なんだけれど、断章取義の誹りを振り切ってまた引用すると、
「時間化は、根源的でしかありえないような隠喩の根元である。『時間』という語自体が、形而上学の歴史の中でつねにそう理解されてきたように、一つの隠喩であって、この自己-触発の「運動」を指示していると同時に隠蔽しているのである。」
「・・・『世界』は、時間化の運動によって根源的にもたらされるのである。・・・時間化は現象学的還元の力そのものであると同時にその限界そのものである。〈自分が-語るのを-聞くこと〉は、自己の上に閉ざされた内部の内面性ではない。それは、内部において還元不可能に開かれていることであり、話す言葉の中の目と世界である。現象学的還元とは、一つの光景なのである。

 言うまでもなく、何のことか分からないのであるが、写真という光景はどんな光景なのかと考えてしまう。

『ザ・バンド ザ・ラストワルツ』

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 ザ・バンドの解散コンサートをマーティン・スコセッシが撮った『ザ・バンド ザ・ラスト・ワルツ』40周年記念リマスター版を観た。
 この映画はDVDも出ている。それについて、糸井重里が「ほぼ日」で、沼澤尚てふドラマーと6回シリーズで語り尽くしているので、そちらを一読なされるとよい。

 ザ・バンドは、ボブ・ディランが、アコースティックギターエレキギターに持ち替えて、いく先々で大ブーイングを浴びながら敢行したライブツアーに帯同したバンド。ていうか、その時から「ザ・バンド」と名乗った。この映画でも最後にボブ・ディランが出てきて、「forever young」と「baby,let me follow you down」を歌う。が、このボブ・ディランの出演は、コンサート開始15分前までどうなるか分からなかったそうだ。というのは、この映画の公開時期と、ボブ・ディランが出演する別の映画の公開時期が重なったために、契約面での制約があったらしい。

ラスト・ワルツ (2枚組特別編) [DVD]

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  • 発売日: 2017/04/26
  • メディア: DVD

 でも、結局、予定になかった曲まで、ノリでやっちゃったみたいで、その辺の「え?」みたいな感じは画面からも伝わる。糸井重里が見ているDVDには、マーティン・スコセッシが副音声で解説しているらしく、その撮影秘話がなかなか面白いそうだ。マーティン・スコセッシは、ザ・ローリング・ストーンズの『シャイン・アライト』も撮影しているが、あのときも、ミック・ジャガーがコンサートの寸前までセットリストを決めなくて、なかなかやきもきしたみたい。マーティン・スコセッシがセットリストを受け取るところも撮影されてたけど、演出かな?。

 ザ・バンドは、玄人好みするバンドらしく、竹内まりやも彼らの大ファンであることを公言している。まだデビューする前に、ロビー・ロバートソンに直撃インタビューをしたことがあるそうだ。それこそ、この「ラストワルツ」のキャンペーンで来日していたときだったそう。それから手紙のやり取りもするようになり、ロビー・ロバートソンの誕生日に花を贈ったりすると、ファックスで(この元記事が2001年なんで、今はどうなのかな?)、「どうもありがとう」とか返事が届くそうだ。

 ロビー・ロバートソンは、この後、『レイジング・ブル』の音楽監督を務め、それからはマーティン・スコセッシ監督作品の音楽にたびたび関わっているそうだ。

 たぶん『レイジング・ブル』のとき、キャンペーンで来日したんだと思う。ロビー・ロバートソンが映画館で曲を披露するのを坪内祐三が見たと言っている。で、その舞台に、デビューしたばかりの竹内まりやがいたそうだ。なぜなんだろうと思ったみたいだけど、上記のような事情でその時にはもう親しかったんだろう。

 ところで、2018年11月23日から『souvenir the movie ~Mariya Takeuchi Theater Live~』
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と、『エリック・クラプトン~12小節の人生~』
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が、上映されます。楽しみにしてます。