東京国立美術館の常設展

川端龍子《新樹の曲》

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 川端龍子昭和7年の屏風。昭和モダニズムの名品だと思います。

長谷川三郎《狂詩曲 漁村にて》

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 長谷川三郎のフロッタージュの屏風。横浜美術館イサム・ノグチとの二人展で初めて知った画家。昭和27年のこの作品になると、上の川端龍子とは真逆のベクトルの和の探求に見える。和が客体視されている。

藤田嗣治《哈爾哈河畔之戦闘》

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 時代的には上の二作品の間にある、藤田嗣治戦争画。戦後、米国に接収されていたものが今は東京国立近代美術館に無期限貸与という形になっている。
 これはノモンハン事件を描いた作品だそうだ。藤田嗣治は確かに従軍画家ではあったが、ノモンハンにいたはずもなく、これは、ノモンハンで戦死した部下の鎮魂のために荻洲立兵という人が藤田に依頼したものだそうだ。
 ノモンハン事件日本陸軍の愚の骨頂として今ではよく知られている。司馬遼太郎が書こうとしてついに断念した。当時、司馬遼太郎に編集者としてついていた半藤一利は、司馬遼太郎が主人公に据えられるような、まともな人物が見つけられなかったせいではないかと推測していた。後に、半藤一利自身が書籍化した『ノモンハンの夏』を読めば、これを軍の暴走と言わずして何なのかと言いたくなる。
 それに比してこの藤田嗣治の絵の明るさ。戦車に肉弾戦で臨んだ戦闘の様子は経験者の証言なしには描かれなかっただろう。

藤田嗣治《哈爾哈河畔之戦闘》部分

4mを超える画面の右上端に描かれたこの小さな戦闘機の水平の確かさに狂気を感じるほど。
 しかし、発注者である荻洲立兵の手許には、日本兵の死体が転がる別バージョンの《哈爾哈河畔之戦闘》があったという証言もあるそうだ。軍部の目を憚ったためとすると十分に考えられる。

小倉遊亀《浴女 そのニ》

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 小倉遊亀小林古径の薫陶を受けた。小林古径の線の美しさをさらに追求した感がある。《浴女 その一》は何度も観ていたけど、そのニは初めて観た。ちなみに《浴女 その一》はこちら↓。

どちらも直線と曲線の響き合う感じが美しい。
 小倉遊亀の最大のコレクションを抱える滋賀県立近代美術館は改装の予算がなくてしばらく閉まっていたのだが、2021年6月にめでたくリニューアルオープンしたそうでホッとしている。

セバスチャン・サルガド《「ラテン・アメリカ」より セアラ州ジュアゼイロ・ド・ノルテ、ブラジル》

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 セバスチャン・サルガドの小特集もありました。

辻晋堂《詩人(大伴家持試作)》1942

 辻晋堂のこれを大伴家持とするセンスが面白いと思った。昭和17年のこの頃、歴史感覚が歪んでいたのではないかと思ってしまった。青木繁大国主命などの例を考えても、古事記の世界の身近さが今と違うのだろうと思わせるし、と同時に、その感覚は、歴史としての正確性とは別の世界線にあったとしか思えない。けして意識的ではなく、どこか「誤配」などという言葉を思い起こさせる。言い換えると、近代の日本人は「日本」という言葉について、歴史的事実とは無関係な、共同幻想のようなものを抱いていたのではないか。くだけていえば、無意識にも「日本ヨイクニ、エライクニ」という思いが実際にあったんだろう。
 

会田誠《美しい旗(戦争画RETURNS)》

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 その意味では、会田誠のこの絵の方はやっぱりジョークに見えてしまう。そして、その方が望ましい。これを大真面目に捉える国にはとても暮らしていられない。

 駒井哲郎の詩画集の特集もあった。金子光晴との共作で『よごれてゐない一日』という詩画集を見たことがある。あれは素晴らしかった記憶がある。

詩画集『人それを呼んで反歌という』より「人それを呼んで反歌という」

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ゲルハルト・リヒター展

ゲルハルト・リヒター《8枚のガラス》

 東京国立近代美術館ゲルハルト・リヒター展は、彼自身がキュレーションした。展覧会場の模型を使って、展示する作品、配置、展示の仕方などを指示したそうだ。
 作家自身がキュレーションに関わる展覧会はめずらしく、過去には、ベルナール・ビュフェが静岡にあるベルナール・ビュフェ美術館で企画した展覧会が記憶に残っている。
 東京国立近代美術館では11月から大竹伸朗展が開催されるそうだ。16年前の「全景」を見逃したので楽しみ。あの頃は大竹伸朗を知らなかった。
 ゲルハルト・リヒターは、東京都写真美術館国立西洋美術館の所蔵しか見たことがなかった。それよりも『アートのお値段』という映画で「コレクターに買われるより美術館に展示される方がよい」と発言していて、あの映画の中ではとびぬけて知的に見えた。
 もちろん、勧善懲悪的な観賞はバカげてるが、しかし、何度も言うように、あの映画のジェフ・クーンズの喋り方が、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のデカプリオにそっくり。アーティストというより詐欺師の話術で、もし、ゴッホにあの話術があれば、生前から巨万の富を手にできたろうにと思わせた。
  
 各部屋ごとに必ず、グレーの絵、鏡、ガラスの作品があるのが、展覧会全体に音楽的なリズムを感じさせる。

《4900の色彩》

こういう絵の横には

《グレー》、《鏡》

こういう絵がある。
 《ビルケナウ》の部屋では典型的に

ビルケナウの部屋

こういう構成になっていた。

《グレイの鏡》

グレイの鏡を中心にホンモノとフェイクが相対している。その奥にゾンダーコマンドが撮ったホロコーストの現場写真が配されていて、これだけは撮影不可になっていました。
 ゾンダーコマンドとは、ナチスユダヤ人収容所で、大量虐殺された同胞の後始末をさせられるユダヤ人です。おそらく決死の思いで隠し撮りしたものと思われます。ピントも甘いし、水平も取れていません。

《ビルケナウ》一部

 《ビルケナウ》と名付けられた4枚の絵の下には、ゾンダーコマンドの撮ったこの写真が拡大されているそうです。この絵は、塗りつぶそうとする思いが同時に表現しようとする欲求にもなっている。
 1960年代からホロコーストの表現に取り組もうとして何度も挫折してきたリヒターが2014年にこの絵を完成させたとき、ようやく「自由になった」と感じたそうです。

《モーリッツ》2000/2001/2019

 この絵はリヒター自身の長男を描いた絵だそうです。フォトリアリズムを思わせる写実的な絵の上に、後から引っ掻きキズのような擦れを加えているのがわかります。
 絵筆をどこで止めるかは画家の悩みどころだそうです。この絵は一度描いて19年後にまた手を加えた。
 ゲルハルト・リヒターの最も独創的な作品は

《2014年12月8日》

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 写真の上に油彩を加えたこうした作品だろう。

《2016年6月8日》

 ちょっとサイズ感を失う。実際、ここで見ただけだとサイズが想像できないと思う。
 写真の上に油彩で彩色するという行為には、ひとつは写真というイメージを絵の具という異物と対立させることで、モノ化する効果がある。もうひとつには、絵の具という、ふつうは文字通り絵の「具」にすぎない、イメージを伝達する情報単位に過ぎないものを、写真と対置することで、これもモノとしての存在感を主張させている。
 これは、まるで写真のように描くフォトリアリズムとは違い、写真と絵の具を異物として対立させることで、元の写真のイリュージョンを阻みながら、新たなイリュージョンを生み出していると言える。
 これが《ビルケナウ》になると、元の写真は完全に塗りつぶされてしまう。しかし、元の写真は同時に展示されることで存在し続ける。風神雷神図屏風の裏の夏秋草図屏風のように別の作品のようでありながら血を分けた姉妹のように互いに語り継がれることになる。
 絵の具を塗るというプリミティブな行為が、言葉にできない思いを載せているように見える。

richter.exhibit.jp

投票と暗殺のめぐりあわせ

 明日、展覧会を予約したので、今日、期日前投票してきた。そのとき、昨日の安倍晋三の暗殺と、この投票と、どちらが有意な行動だろうかとふと疑問に思った。
 正直言ってこれといって投票したい政党も政治家もいない。ただただ民主主義のために投票しているだけである。でも、単に民主主義のためという観点からにしても、昨日の暗殺と今日の投票のどちらが有意だろうか?。
 安倍晋三という人は、岸信介という第二次大戦の戦犯から政治的基盤を受け継いだ人である。安倍晋三という政治家が民主主義を体現する存在でなかったのは間違いないし、彼自身おそらく民主主義を軽んじていたに違いない。長いスパンで見た場合、安倍晋三を殺すことは安倍晋三に投票することより民主主義的であったかもしれない。
 また、安倍晋三は国民に愛国心を教育しようとしていた人であった。しかし、彼を殺した山上徹也容疑者の行為は、死を賭して政治家に鉄槌を加える、まさに愛国者のそれであった。安倍晋三氏の推し進めようとした愛国教育を先取りしたかのような事件だった。
 山上徹也氏が「元総理の政治信条への恨みではない」と供述していると、誰も聞かないうちに奈良県警が発表したのには笑ってしまう。というのは、謀反ではなく仇討ちだったと決めつけられて処刑された『鎌倉殿の13人』の、曽我兄弟の回そのままだったからだ。参院選の応援演説中のテロという大失態を考慮すれば、警察として、犯人の政治声明を真っ正直に宣伝するはずもない。
 この日曜は選挙特番でちょうど『鎌倉殿の13人』が休みなのである。源頼朝が死んで、これから鎌倉の御家人たちの殺し合いが始まる、その前に、安倍晋三が殺されたというわけ。何というタイミング。しかも、あの鎌倉殿の御家人たちの血筋を辿ると、結局、今の政治家たちにつながらないでもないという、日本という国はそんな古い国であった。
 石原慎太郎氏などは、東日本大震災を「天罰」と言った。ほぼ源頼朝と同じ思想の持ち主だった。また、麻生太郎氏などは「弱いのがいじめられる。強いやつはいじめられない。」と発言したばかり。その発想から安倍晋三氏にかける言葉をさがしてみてほしい。どうなるかな。
 「弱肉強食」の肯定は当然、弱いものが強いものを倒す「下剋上」の肯定でもある。麻生太郎氏の思想を肯定すれば、安倍晋三氏は殺されて当然ということになるだろう。殺されたやつが悪いというしかない。これは私の意見ではなく、麻生太郎氏の思想からすればそうなるねというだけなので、文句は麻生太郎氏にね。
 もうひとつ別のタイミングを言えば、これもまた皮肉というしかない。ちょうどこの日、元TBS記者の山口敬之のレイプが、最高裁で確定された。この山口敬之が安倍晋三氏の伝記記者であったことは間違いなく、そして、山口敬之に対して出ていた逮捕状が逮捕直前に握りつぶされたこともまた間違いなく、そして、その逮捕状を握りつぶした中村格が安倍政権下で警察庁長官に就任したことも間違いない。この3つの事実を後世の歴史家がどう推論してどう結論づけるかに、頭をひねるほどのミステリーはない。
 それで、はたと考えてしまう。暗殺と投票とどちらが政治的に健全なのかと。真っ当な投票行為の結果、世襲議員創価学会が政治を支配するだけなら、『鎌倉殿の13人』ではないけれど、もう1ダースほど政治家を暗殺した方が政治を動かせるのではないか。だとしたら、ちまちま投票している方が怠慢なだけで、暗殺を実行した山上徹也氏の方が民主主義のために有意義な行動をしたことにならないか?。
 伊藤博文を暗殺した安重根は韓国では英雄である。その伊藤博文だって明治維新の動乱で何人殺したか分からない。現時点では、お葬式のご挨拶よろしくゴニョゴニョ言っている世論だが、100年後と言わず、50年後、10年後でさえどんな評価になっているかな。
 

政治家の暗殺について

 金丸信が撃たれた映像は見たことがあるが、至近距離から撃ったのに一発も当たらなかった。あの頃は右翼も平和ボケしてたんだろう。手製じゃなくて既製の拳銃だったが。
 政治家の暗殺についてはよほど後にならないと真相がわからなかったりする。今回の犯人も意味不明なことを言っているらしいが、ほんとうに意味不明なのかもしれないが、意味不明でないと困る人たちがいるからかもしれない。
 原敬の暗殺について、最近本で読んだが、大本教出口王仁三郎が事前に知っていたそうだ。原敬暗殺の2時間前に、信者の前で公言している。大本教ではこれを出口の超能力だと喧伝しているのだが、信じるか信じないかはあなた次第です。
 当てずっぽうならそれだけのことだが、大本教は当時の陸軍と密接な関係があり、柳条湖事件の首謀者のひとり、三谷清少佐は大本教の信者だった。出口は、1931年9月8日に「これから10日後に大きな事件が起き、それが世界的に発展する」と語った。柳条湖事件は1931年9月18日である。これも大本教に言わせれば予言ということになるらしい。
 日本の軍政化のターニングポイントとも言える原敬の暗殺に、大本教なんていう団体が関わっていたと、いったい誰が知ってただろうか。
 「安倍晋三元首相が街頭演説中の奈良市で銃撃され死亡した事件で、現場で逮捕された山上徹也容疑者(41)が「特定の宗教団体に恨む気持ちがあった。安倍元首相が(その団体に)近いので狙った」という趣旨の供述をしていることが捜査関係者への取材でわかった。」(朝日新聞)だそうだが、なぜその宗教団体の名前を出さないのかよくわからない。
 いずれにせよ真相は、永くわからないものだろう。

『ベルイマン島にて』

 イングマール・ベルイマンが暮らしたフォーレ島に、映画作家カップルがひと夏を過ごしに来た。
 ティム・ロスの演じる映画作家の方が、自身の映画の上映とトークショーに招かれた、そのついでに、ベルイマンの過ごした島で、お互い、書きかけの脚本を仕上げようとしている。
 ベルイマンの島、歳の差のある映画作家カップル、書きかけの脚本、という道具立てで、メタフィクションが展開する。劇中劇はヴィッキー・クリープスの演じる女性のシナリオの方で、その主人公をミア・ワシコウスカが演じている。
 女が男に、出来かけの構想を話すかたちで劇中劇が始まる。この導入が絶妙にうまいと思う。「1度目の出会いは早すぎ、2度目の出会いは遅すぎた」そういう男女の話なのだと、これはヴィッキー・クリープスのセリフで語られる。この映画の梗概を要約するとその一行で事足りる。それをどう見せるかが映画ですから、というミア・ハンセン=ラブ監督のしたたかな自信みたいなものを感じさせる。
 メタフィクションの外側と内側をつなぐメガネの青年、ハンプス・ノルダーソンの風貌もいい。アリスを不思議の国に誘うウサギ役として絶妙だと思う。
 映画のナレーションの役割は興味深く、この映画ではけっこう重要な心理をあっさりヴィッキー・クリープスの語りで済ませてしまう。凡庸な映画ならその心理のまわりでくどくどした描写を重ねてしまうと思う。どうしてこうなったか、言い訳のように必然性に縋りつこうとして。
 しかし、そうではなくて、その時何をしたかを描くことで、日常の裏側にひそんでいる何かを感得できる。これは言葉と映像で語ることができる映画の特徴だと思う。
 何を語ったかといえば何も語っていないような、あるいはこれ以上言えば野暮になるような、こういう映画は豊かであると感じる。
 「理論化できないことは物語れなければならない」と舟越桂が言ってたけど、その伝でいえば、物語れないものは映画化できるわけだ。
 ミア・ハンセン=ラブはオリビアアサイヤスとパートナーだそうで、そんな事実からこの映画を私小説的に捉えることもできるのだが、それはたぶん罠だと思う。そんなゴシップ的な興味で映画をつくるわけもない。それに引っかかる客ももちろん想定済みだろうけれど。

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いつもながら官僚のやりくち


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 この辛坊治郎の発言はまさしくその通り。それで、確かこれについて書いたことがあったよなと、過去記事を検索してみたら、2014年に、自分の記憶以上にそのまま書いていた。
 日本の官僚のやり口を何度も見せられていれば、そりゃ気づくよな。

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