『やがて海へと届く』ネタバレ

 昔は、観た映画、行った展覧会、備忘録のように書き留めていたが、最近は観たけど書き忘れるものも増えてきた。
 『すずめの戸締まり』を観て思い出したのは、浜辺美波岸井ゆきのの『やがて海へと届く』。6月に観たんだけれども、あれも東日本大震災を扱っていたので思い出した。
 浜辺美波岸井ゆきのが、はたから見たらどう考えても同性愛的なシンパシーを感じているのに、お互いに自分のセクシュアリティに確信が持てなくて、ズルズル時が過ぎていく。なんなら浜辺美波の方は結婚しちゃう。どうなるんだろうとワクワク、夏目漱石の『それから』みたいな展開になるかなぁとか思ってたら、津波で。
 いや、それは?、と思っちゃったすね。原作はどうなのか知らないけど、そこを津波で片づけるの、よくないよね。
 という意味は、この映画全体が冒頭10分でしかないじゃん。そこからじゃない?、物語は。若い頃に知り合って、同性愛的なシンパシーを感じていたのに、何も起こらず、十年が過ぎました、津波で片方が行方不明になりました、からの・・・じゃないですか?。そこで終わる?。
 そのあと、『寝ても覚めても』みたいな展開になってもいいし。『花様年華』みたいになってもいいし。いずれにせよ、そこから始まらなきゃ。そこで終わる?。
 津波がもたらした喪失が、2人のセクシュアリティ、言い換えれば2人の愛の物語をどう形作るかが、語るべき事だと思ったのですけど、津波で終わるもんなぁ。違うと思ったなぁ。


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『オルガの翼』『すずめの戸締まり』

 『オルガの翼』は、今の戦争につながるユーロ・マイダン革命の頃のウクライナを舞台にしている。2013年11月ウクライナ政府がEUとの連合協定交渉を停止した事に抗議する数十万の市民たちが広場に集まりはじめた。これに対してヤヌコーヴイッチ大統領は集会の自由を無効にする法律を作って対抗しようとしたが、翌2014年2月、ロシアに亡命を余儀なくされた。これをユーロマイダン革命と呼んでいるようだ。

 この映画のオルガは、ウクライナナショナルチームのエースだったが、ジャーナリストの母親が命を狙われる事故に巻き込まれたために、亡父の祖国であるスイスに危険を避け疎開する。そして、スイスのナショナルチームで国際大会を目指す。

 主人公のオルガをはじめ、すべてのキャストが実際に体操のトップクラスの選手たちであるのがすばらしい。いかに演技力があったとしても、モデルみたいな体型の女優さんたちがこれをやってたらどっちらけだったと思う。筋肉のよろいに身を包んだ少女たちが革命の戦士のイメージに重なる。
 
 ユーロ・マイダン革命の現場の映像も、その場にいた人がスマホで撮影した実際の映像を使っている。なんと言ってもほんとの映像なんだから、それもまた迫力に寄与している。正直いうと、観る前までドキュメンタリーだと思ってた。
 
 オルガがスイスにいる間に、デモが激化していく。10代の少女が異国でひとり挑戦し続ける競技生活と、祖国に残してきた母親やかつてのチームメイトが巻き込まれていく祖国の分断。この過酷な状況は絵空事ではなく、この物語は、この映画の監督が、実際にスイスで出会ったウクライナのバイオリニストの実話から着想を得たそうだ。

 映画の時間は、ウクライナが親EU派と親ロ派に分裂し、東部2州が独立を宣言し、事実上ロシアに取り込まれるクリミア併合のところで終わっている。ここまでは国際社会も承認していた。ウクライナとロシアの関係は、他所からは分かりにくい。もともとソ連だったわけだし、実際に親ロ派という人たちがいて独立したとしても辻褄が合う気がした。今から考えれば、いくら親ロ派といっても、ロシアに併合されて平気だというのは奇妙な話ではあるが、それでも、歴史的経緯を考えると、そういう分断も起こりうるのかなと納得してた気がする。ウクライナとロシアの間でもそれで話がついてたんだし。
 だからこそ、その後のロシアのウクライナ侵攻は訳がわからない。プーチンの精神状態が疑われたのも無理はなかった。ウクライナEU加盟云々は、ユーロマイダン革命がそれが発端なわけだから、ウクライナEUに加盟することが侵攻の理由では、国際社会が納得するわけがない。というか、ロシア人の多くも理解できないのかもしれない。つうか、できないだろう。
 満州よりさらに先に踏み込んでいった日本軍と同じで、この先は泥沼があるだけじゃないだろうか?。この戦争の終わり方が想像しにくい事になってきた。というのは、東部2州の独立と言われていたものが、その実、ロシアの侵略であったと国際社会に認識されてしまったから、そうなると、クリミア奪還というところまでいかないと、戦争が終わりそうにない。
 そこまでいかないと、満州に傀儡政権を置いていた日本と同じく、ロシアは侵略国家だと国際社会からの非難され続ける事になる。考えれば考えるほど馬鹿な戦争で、これをはじめたプーチンの政治生命はそろそろ詰んでいると思われる。もし、ロシアの将来を考えるまともな政治家がロシアにいるなら、現時点でロシアにとっていちばん有利な決着は、ユーロマイダン後にウクライナと合意した東部2州まで後退し、プーチンの首を差し出す事だと思うだろう。しかし、戦争犯罪が明るみに出て、戦争の被害の甚大さを考えると、なかった事にしましょうで済むわけがない。
 なので、この戦争の終わり方としては、東部2州もウクライナに戻る、プーチンが失脚する、ロシアが何某かの戦後補償をする、以外には、現状考えにくい。つまり、戦争を終わらせるのはプーチン後のロシアという事になり、プーチン後のロシアがどうなるのか、誰も確信できないために戦争の終わる目処が立たないんじゃないだろうか。

 新海誠監督の新作『すずめの戸締まり』も初日に観た。ある水準までは必ず行ってくれるという信頼はあるし、今回もそれは裏切られなかったが、その上で、あえて言うと、今回の場合、恋愛に説得力がなかった。ボーイ・ミーツ・ガールの部分が唐突なのだ。
 だからどちらかと言うと、あの要石の猫の方が、すずめ(主人公の女の子)の運命を司らなければならなかったはずである。なぜ、すずめが要石に出会う事になったかにドラマがあったはずだった。
 だから、今回は恋愛要素は要らなかったと思う。あの閉じ師の方はイケメンではなく、デブでちんちくりんなオタクの方が話がわかりやすかったのではないか。その方が椅子にされても面白いし。
 すずめは椅子を助けるために異界に赴くが、一方ではそれは自身の過去に出会うための旅でもあったわけで、恋愛要素を絡めたために、その部分が弱くなっている。要石とすずめの物語が椅子の物語にもつながっていったはずで、椅子の物語は恋愛とは関係なかったはず。
 むしろ、すずめの叔母にあたるタマキさんの側に恋愛が発動すべきだったのではないか。要石を追いかけるすずめを、タマキさんと椅子が追いかけてもよかったのではないか。イケメン2人と漁港の同僚ひとりという男の配置がうまく整理されていないように感じた。この3人は1人に統一できた気がする。
 3.11を描いた映画としては何と言っても『君の名は。』が素晴らしかった。3.11以後を描くとすれば、やはりタマキさんの存在はもっと比重を増したはずだった。タマキさんの背後に大きい方の要石が現れる寓意についてはもっと考え抜かれてもよかったと思う。
 3.11以後と言えば、やはり原発事故を抜きには語れない。つまり、天災と思われていたものが、実は、人災でもあったわけで、今回の映画で言えば、大きな要石を抜いた誰かがいたはずなのである。そこが描かれないので、大きな要石のキャラクターが弱くなっている。
 『オルガの翼』と『すずめの戸締まり』を比べて、国を揺るがす重大な出来事を扱った映画として比べると、『オルガの翼』に『君の名は。』の時と同じような鮮烈さを覚える。
 こうやって書くと『すずめの戸締まり』に文句を言ってるようだが、ゼロからあの物語を作るのはやはりすごいんだし、映画として不足ないのだけれど、敢えて言うならという事なので。

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岡本太郎展

 岡本太郎という人は画家であり、造形作家であり、写真家であり、文章家でもあった。先月、東京都美術館岡本太郎展を観た。12月28日までやってる。
 太陽の塔のイメージのせいかもしれないが、岡本太郎は画家であるよりも造形作家の印象が鮮烈。

たとえばこういう絵

 けっこう代表的な絵だけれども、そもそもフレームの意味はあまりないんじゃないか。

こういう造形作品に置き換えられる気がする。

 ちなみにこれは《愛》と題されている。今展覧会の中でもピカイチにセクシーな作品。ヘンリー・ムーアとかの作品と比べても遜色ない。
  

こういうのなんかもイサム・ノグチに引けを取らない。

 絵って、モノとしては一枚の板な訳じゃないですか?。岡本太郎は、そのフレームに退屈していたのではないかと思う。「芸術家は美に退屈している」と彼自身の著書にも書いてあった。
 もちろん、フレーム感覚がないわけはない。たとえば、初期の代表作

《傷ましき腕》

には、フレームの意識、言い換えれば、何を描いて、何を隠すかという意識がはっきりしている。なので、逆説的なのかどうか、岡本太郎らしくない。
 もちろん、岡本太郎も構図意識を持っていた。

《夜》

 でも、ひとつのフレームを切り取り、他のフレームを捨てる、ある瞬間を選び、他の瞬間を捨てる事に、絵の限界を感じていたと思える。ピカソに心酔したのも、複数の視点で絵を描くことが大きかったのではないか。どちらかというとフレームを超えたい人なのだろう。

《装える戦士》

 その意味ではこういう日の丸構図の方が岡本太郎らしく感じる。
 ところが、カメラマンとしての岡本太郎は見事にオーソドックス。

竹富島の道》

 写実という意識で世界に向かうとこういうことになる。多くの画家は、むしろ、こういう意識で絵を描いている。
 しかし、岡本太郎が絵を描くときは、むしろ、造形作家のようになる。

《燃える人》

 《明日の神話》のドローイングと原画を比べて観られるのも興味深かった。

明日の神話 ドローイング

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明日の神話

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 このドローイングと油彩の間には飛躍があるように感じる。たとえば、肖像画であればドローイングと油彩の間にはルーティンというか、誰も信じて疑わない手順がある。しかし、この《明日の神話》のドローイングと油彩の隔たりには岡本太郎の意識があるだけ。これが立体作品になっても、もしくは、まったく違う油彩になっていても不思議じゃなかった。だから、ドローイングと油彩は、まるで違う作品だといえるだろう。
 確かに下書きには違いないだろうけれど、伝統的な油絵の下書きとは意味が違う。あのドローイングが伝統的な手順で油彩に仕上がる事に岡本太郎の中での葛藤はあった気がする。
 抽象画の場合、絵である意味があるのかどうかという問いに常に向き合っていたと思う。パウル・クレーなんかは、出来上がった絵を切断したりもしていた。岡本太郎の場合、その結果として、造形作品や写真にも比重が移ることはあったに違いなかった。
 太陽の塔のようなモニュメントが東京にないのは残念な気がする。美術館の数を考えると、あの規模の芸術作品はがあってもいい気がする。翻って考えると、太陽の塔という作品は確かにべらぼうなものであった。

太陽の塔

『花様年華』

 ウォン・カーウァイの4Kレストアの『花様年華』を観た。
 「キサス、キサス、キサス」を唄っているのはナット・キング・コールだそう。
 セクシー、完璧、カメラアングルだけで全てを語る。結局、何も起こらないのがこんなにセクシーとは。

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廊下の狭さと階段の暗さが、そのまま社会の狭さと男女の暗さのように見せる。すごい。
 1960年代の香港を2000年に描いている完璧なレクイエム。まさに帰らざる日々、漢字の読める国で生きててよかったと思った。

大竹伸朗展

 竹橋の東京国立近代美術館で「大竹伸朗展」が始まった。2006年に東京都現代美術館であった「大竹伸朗 全景」を見逃したのが悔いに残っているので、今回は早々に出かけた。

入口でいきなり「宇和島駅」のサインが迎えてくれた。

 これだけで、東京国立近代美術館大竹伸朗に占拠されてる予感がするけど、そりゃまあそういう宣言なんだと思っていいんだろう。
 たとえば

これは大竹伸朗と言えばというスクラップなんだけれども

 ご覧のようにライティングが蛍光灯なのだ。蛍光灯で作品を照らしている美術展なんて見たことがない。つまりは、展示ケースからもう大竹伸朗の作品なのだ。
 東京国立近代美術館だし、今回の展覧会も撮影OKだった。最近は撮影可の展覧会も増えてきているが、今回の大竹伸朗展は、写真を撮ってもかまいませんよってことを越えて、展覧会自体がフォトジェニックというか、被写体として魅力的で、被写体としてカメラを挑発しているようにさえ思えた。

たとえば、こういうライティングとか
こんなとか
こんなとか
こんなとか

展覧会全体がコンセプチュアルに統一されている。

 個々の作品ももちろんすばらしい。

かっけぇ!
ゲルハルト・リヒターぽかったり
ジョセフ・コーネルっぽかったり

デビッド・ホックニーとか、ピーター・ドイグとか、クリスチャン・ボルタンスキーとか、ジョン・ルーリーとか、いろんな作家の作品が頭をよぎるんだけれども、それは、ピカソドガっぽかったり、セザンヌっぽかったりしても、どこまでもピカソであるのと同じで、あらゆるスタイルが、大竹伸朗という個性に錘を沈めてゆく。

 そして、それに音の要素が加わる。

こういう小さなスピーカーがついている作品があって

 
近づくと音が聞こえる。

これのもう少し小さなヤツが東京都現代美術館にあったかな。



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 後ろでポクポク鳴ってるのはまた別の作品。

音はアプリで聴けるそうです。
そして、なんと言っても圧巻なのはこれだな。

 これはもう大聖堂だな。

これが展示されている部屋自体も素晴らしい。
どの角度から見ても何かがある
ここに堆積する、見る、描く、聞く、貼る、拾う、などすべての行為の痕跡こそまさしく

アートだろうと思う。ちからわざでアートを再定義させて見せる作家はそんなにいない。

ショップでこれを買った。

物欲まで刺激する作家は、草間彌生横尾忠則大竹伸朗ぐらいかも。

大満足で宇和島駅を後にした。


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『窓辺にて』ややネタバレ

 つかこうへいが、ダスティン・ホフマン主演の『卒業』のラストについて、結婚式の教会から花嫁を奪われる花婿の気持ちにならずにいられない、みたいなことを書いていた。ダスティン・ホフマンの行為は今ならもちろん大炎上案件だろう。つかこうへいの定番ネタではあるのだけれど、視点を移すと同じ事実でもガラリと変わる。つまり、多くの観客(すべての観客かも)が見ているのは、事実そのものではなく、そこにまぶされているストーリーというウソの方なのである。
 今泉力哉監督が、稲垣吾郎を主演に迎えた本作の主人公は、奇しくも、濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』と同じく寝取られた夫である。『卒業』の昔と違って、花嫁を奪う男を英雄視できないのは当然としても、寝取られ男を主人公に据えたとて、シェイクスピアの『オセロ』のように、切った張ったの苦悩を演じてみせるのは、そりゃ違うでしょうと誰もが思う。
 女房が他の男と寝てるとなったとき、『オセロ』の昔はもちろん、つかこうへいが『卒業』に感じた違和感さえ、今では、どこか違うって時代、男たちはいったいどんなストーリーでその事実にオチをつけられるのか?。
 そういうことがこの映画の発端になっているのかどうかまったく知らないが、『あの頃。』『愛なのに』『街の上で』もそうだったように、今泉力哉監督の脚本は、同時代を捉えようとする冒険に満ちている。
 一方で、ただ時代や世代の属性とは言えない要素ももちろん詰まっている。同じように不倫の問題を抱えている若葉竜也志田未来夫婦は稲垣吾郎中村ゆり夫婦とはまるで違う。ふとしたことで知り合う17歳の女子高生の小説家・玉城ティナカップルとも違う。
 劇中でも言及されるが、この主人公は正直すぎる。ウソを忌避するあまり感情がからっぽになってしまっている。女房に浮気されたとき、自分はどう感じればいいのか、主人公がそれを求めてさまよう地獄めぐりの映画とも言える。
 この主人公に稲垣吾郎が実によく似合っている。元SMAPの中でももっとも執着がなさそうなのは、誰でも知っているけれど、その感じをキャスティングに反映させようとすると意外に難しい。そういう成功例としても、今泉力哉監督の能力を讃えてもいい。キャスティングが先にあったとしても、脚本が先にあったとしても、これは大したものだと思う。
 だが、実は、この主人公の頭上にストーリーは着地しない。彼の周囲でだけ「物語」が決着していく。彼の時間は結局止まったままに思える。彼がそれを書いた後に創作活動をやめてしまった処女小説の続編を、妻の浮気相手である後輩の小説家が書いてしまったとき、妻の浮気関係も終焉するが、同時に主人公の結婚生活も終わってしまう。彼が見つけなければならなかった「物語」を浮気相手が奪ってしまったから。
 もちろん、その「物語」も主人公にとってはウソだが、彼自身のウソを主人公が見つけられなかったのも確かなのだ。その時、主人公は当事者として、というか本人として、いやそれは違うと言いうるのか。
 これは結構残酷な結末だと思った。この後、主人公が自殺したとしても驚かないくらいの。だが、結局、主人公の時間は止まったままなのである。
 消えてしまった女性を忘れられないわけではないと主人公は言う。それが本心であることを誰も疑わないだろう。しかし、それを言われた妻にとってみると、いかに論点がずれていることか?。いかに自分たちの暮らしが蔑ろにされていると感じられるだろうか?。
 先ほど『ドライブ・マイ・カー』を比較に上げたが、突然消えてしまう女性は、村上春樹の発明とも言われている。女が消えてしまうことは、「物語」が消えてしまうこと。号泣してしまうエンディングにたどり着けなかったこと。そして、そのアンチクライマックスが彼の「物語」をすっかり漂白してしまった後で、もう一度自分のウソに踏み出せるだろうか?。誰かのウソに寄り添えるだろうか?。それとも、自分のウソに誰かをまきこめるだろうか。
 つまりはもう一度最初から始められるのかという問いを、玉城ティナの若いカップルが突きつけてくるとも言える。おそらく、彼らの側にはその意識はないのだが、否応なく年代の差を彼に感じさせているようなのだ。そして、映画の発端と同じ位置にさらに孤独になった状態で主人公だけが取り残されることになったようなのだ。実は、慟哭してもよいシチュエーションだったかもしれない。
 笠智衆が、実は、『晩春』のラストに慟哭してくれと小津監督に要求されたと回想していた。『晩春』という映画を漫然と見ていると、慟哭は唐突に思えるかもしれない。しかし、あの映画の結末では、主人公は慟哭するしかなかったとして何の不思議もない。それと同じように、この映画のラストの稲垣吾郎も実はもう何の未来の展望も持っていない。主人公だけが映画の冒頭に戻ってどこにもいけない。稲垣吾郎の飄々とした表情がその孤独をライトにしている。
 今泉力哉監督の今までの映画に比べて、映像が格段に美しく感じる。多分、今までの映画と違って、今回の映画は映像が美しい必要があったのだろうと思う。今までの映画と違って、今回の主人公はずっと孤独だからだと思う。

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東京国立博物館創立150年記念 特別展 「国宝 東京国立博物館のすべて」

 トーハクの国宝展、チケットがとりづらいので平日の午後になった。
 「東京国立博物館のすべて」ではあるけど、それはタイトルであって、国宝を全部見られるはずもなかった。そりゃそうだ。例えば、尾形光琳風神雷神図はあったが、その裏面の酒井抱一の夏秋草図も出てないし、俵屋宗達風神雷神図も出てない。
 雪舟の秋冬山水図はあった。雪舟の中ではあれが一番好き。
 狩野永徳の檜図屏風はあったが、狩野山雪の老梅図襖はない。当然だね。メトロポリタン美術館所蔵だから。
 しかしながら、国宝中の国宝と言われる長谷川等伯の松林図屏風は通期でおいてほしかった。
 そう言うわけで、常設展の総合文化展に芦繁く通う方がお得な気がした。あちらは写真も撮れるし、人も少ないし。
 現に今回展示されていた国宝 福岡一文字 岡田切 吉房はついこないだ(っても3年前か)常設展に展示されていたのを撮影した。


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 刀剣だけは、静止画で撮っても意味がわからないので動画で撮る。先週、岡本太郎展のついでに立ち寄ったときは、長船兼光が重要文化財であった。


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 今回の特別展で撮影許可されていたのは菱川師宣見返り美人と、新しく国宝に指定された金剛力士像だけ。

菱川師宣 見返り美人

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 人が殺到して大変。
 でも、総合文化展では

鳥文斎栄之 風俗十二葉・地紙折り

 人はガラガラで、こういうの撮り放題。不思議。

 ついでに言うと、今回の国宝とは違うけれど、

縫箔 白地雪持柳扇面肩裾模様

こういうのも展示されていた。
 お気づきと思うが、今回の総合文化展は扇子をテーマにしていたみたい。長沢芦雪の扇などもあった。

長沢芦雪 雀図扇面

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英一蝶 松に白鷺図扇面

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秋らしいのではこういうのも。

扇面雑画 鹿 酒井抱一

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 雪舟では

雪舟等楊 四季山水図

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もあった。