『リトル・リチャード:アイ・アム・エヴリシング』

 いい映画が泣けるとは限らない。最近、いいけど泣けないのが続いたけど、これは『コット、はじまりの夏』以来。だいぶ質は違う涙だけれども。
 リトル・リチャードをはじめ、ビートルズ以前のミュージシャンは全員ひとつのフォルダーに入ってる。意識してというより無意識にそうなってる。
 この映画の公式サイトにコメントを寄せている近田春夫が「これを観るまでリトル・リチャードがどのような人間なのかほとんど理解していなかった。」と書いている。博覧強記の近田春夫さえそうなのだから、私が今さら新鮮なショックを覚えたとてあまりに失礼ってわけでもなさそう。
 リトル・リチャードがデビュー当時からゲイを公表していた(というか、隠す意識すらなかったって方が正しいのかも)ことさえ知らなかった。
 彼の古い写真に見える薄化粧の感じは、ジェームズ・ブラウンの髪型みたいに、当時の風潮として当然だったと思うが、ちょい白人のルックスに寄せるって意味かと思っていた。ちょい白塗りなのかと。しかし事実はそのむしろ逆で、あれはクイアな表現だったのである。何なら独特なヒゲも含めてドラァグクイーンに近かったのだ。それを知って見ると、あの写真が突然新しさで輝き始める。映画の中での彼も「俺は美しい」と言う。が、それは「ブラック・イズ・ビューティフル」って意味さえ超えてたのだ。 
 彼の「tutti-frutti」をパット・ブーンが歌うことを「文化の盗用」と言ったりする。が、黒人社会にそれをいう権利はそもそもなかったことになる。リトル・リチャードの原詩はアナルセックスを歌っていたのだ。
 しかもさらに驚く。1957年、人気の絶頂期に突然引退して信仰の道に入った。女性と結婚し、子供も授かって模範的な家庭人として暮らしていた。
 だがその5年後に突然復帰。イギリスでカムバック公演を打った。その聴衆の1人だったブライアン・エプスタインがプロモーターのドン・アーデンに頼んでビートルズが前座を務め始めたのが1962年の10月だったそうだ。そのあと数ヶ月、ビートルズはリトル・リチャードのライブに帯同した。
 1962年の10月といえばビートルズが「Love me do」でデビューしたその月だ。個人的な長年の疑問はビートルズの楽曲の中で「Love me do」だけ何であんなに冴えないの?ってことだった。実際、その後の大旋風の煽りを受けて「Love me do」も全米1位を獲得するけれど、リリース当初は全英でも17位。カナダでは170枚しか売れなかった。日本でも、高嶋弘之は日本に送られてきた「Love me do」を聴くや否や「ダメだこりゃ」と思ったそうだ。ビートルズが爆発的に売れ始めたのは4枚目の「She loves you」かららしい。
 ってなると、ひとつの仮説として、ビートルズビートルズたらしめたのはリトル・リチャードのイギリス公演だったと言えそう。wikiにも「During this time, Richard advised the group on how to perform his songs and taught Paul McCartney his distinctive vocalizations.」とあるが、以下の両者の演奏を聴き比べればその影響は明らかだ。ポール・マッカートニーはそもそも「リチャードの・・・」と言ってるしね。


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 ついでに言うとこのイギリス公演には5人目のビートルズと言われるビリー・プレストンもいた。
 リトル・リチャードは続いて1963年にはローリングストーンズのツアーにもゲストとして帯同。イギリスでロックンローラーとして完全復活した。
 この時のリトル・リチャードのイギリス公演がなければ大げさではなく歴史が変わっていた。私たちが今聴いているポップミュージックの源泉はまさにここにあった。と、今更知ってびっくりしている。
 にもかかわらず、ビートルズローリングストーンズもリトル・リチャードへの敬意を一度も隠していないにも関わらず、どういうわけか彼の業績は顕彰されてこなかった。無意識に差別を容認しているのかもしれないし、そもそも他人の評価なんてそんなものなのかもしれなかった。
 しかし、最も興味深いのは、この人が生涯、宗教と世俗の間で引き裂かれ続けていたことだ。全英公演も初日はゴスペルをやってブーイングだったそうなのだ。
 ゲイであることの悩みにもいろいろあると思う。心と体の分裂であったり、社会の偏見であったり。しかし、彼は最初からゲイを自認していたし、社会の偏見なんてお構いなしだった。
 ただ、彼はゲイであることが宗教的に正しいかどうかで悩んだのである。彼の行動を見るかぎり、結局、彼自身は男として女と結婚生活を送ることを良しとしたようだ。
 この結論はゲイコミュニティを落胆させてはいるが、1950年代にゲイを公言した彼の功績に比べればそれは批判されるほどのことと思われていないようだ。
 もし、人智を超える神がいて、その神が女と結婚しろと言うならそうするしかない。その結論は実に正しい。盗みたくても神が盗むなというなら盗まないだろうし、神が殺すなと言うなら殺さないだろう。であれば、神が男と女で結婚しろと言うならそうするしかない。
 もしキリスト教という宗教を受け入れるならそうするしかない。ゲイを公言したのと同じくらい勇気ある選択と言えるだろう。
 ただまあ、植木等のいうとおり「わかっちゃいるけどやめられない」のだし、神に言われるならともかく、人にとやかく言われても知ったこっちゃないって強さをこの人は持っていると思う。

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『Here』『ゴースト・トロピック』

 ベルギーの映画監督のバス・ドゥヴォスという人の作品『ゴースト・トロピック』(2019)と『Here』(2023)を続けて観た。
 「ほぼ日」によると、ベルリン映画祭で一目惚れした人が買い付けてきたらしい。
 出演者やオシャレなクレジットが共通していて、独特の文体が確立した作家性の強い監督なのかなという印象を受ける。
 どちらかというと『Here』の方がわかりやすい。
 高層ビルの建設現場で働く男性が2週間の休みの間に故郷のルーマニアに帰ろうと考えている。EU発祥の地であることと移民に寛容であることは印象として矛盾しない。
 何となくアキ・カウリスマキ監督の『枯れ葉』の男性と雰囲気はかぶる。こちらはアル中でこそないが、よるべなさの由来はむしろはっきりしている。アパートの窓から自分が働いている建設途中のビルが見える。帰郷の後にはそのまま戻らないかもしれないとも思っている。
 一方の女性は、コケの研究をしながら大学で講義を持っている。中華料理店を営む伯母とは中国語で会話することから、彼女も二世や三世というわけではないのかもしれない。最近、何を食べても味がしないという悩みを抱えている。
 さて、この2人がどうやって出会うか。あなたが映画監督ならこの2人をどう出会わせる?。だが、そう思っている時点でもう映画の魔法が効いてきている。あとは線路脇の遊歩道をひたすら歩くだけでもいい。
 『ゴースト・トロピック』も、ひたすら歩く。ヒジャブを被った初老の女性が主人公。ビルの清掃を終えたあと最終列車で寝過ごして自宅まで歩くことになる。
 ひとつにはブリュッセルの深夜は初老の女性ひとりでもさほど危険ではないってことがわかる。
 ホン・サンスの『それから』だったか、ソウルの夜の町が、こんなに人がいないかってくらいいなかった。ブリュッセルも負けてない。日本が異常なのかもしれない。島田紳助が初めて大阪に来た時、「祭りか?」と思ったそうだ。もっとも京都の夜は確かに静かだ。
 子供の頃、豊中市に住んでいた。駅に行くためにわたる千里川という川に沿って、ある夜ひたすら歩いてみたことがあった。中学生のころか、たぶん眠れずに抜け出したのだろう。特に当てもなかったが、ひたすら歩くと滑走路の端に行き着いた。頭の上を爆音を上げた飛行機が通り過ぎる。あそこは今は観光名所になっているはずだ。今はナイトフライトはしていないかもしれない。
 ちょっとそんなことを思い出した。普段歩かない深夜の街を歩く。渋谷や新宿のような夜の街ではないからこそ意外な出会いがある。
 ただ、この映画の秀逸な点は、彼女の彷徨の最初と最後を無人の部屋の長いショットでくくっているところ(今こう書きながらこれが『Here』だったか『ゴースト・トロピック』だったか自信がなくなった。ご自身で確かめてください。)。主人公が人ってわけでもない。そんな静謐さが映画全体を包んでいる。
 「ゴースト・トロピック」というタイトルと最後のビーチの描写は難解だった。今もヒジャブを着てる彼女があんな風にビーチではしゃぐ過去がありえたのか?。それとも、歩き始めた最初のところにあった観光広告のイメージからくる妄想なのか?。あるいは彼女の娘の将来に思いを馳せているのか?。
 どうも監督インタビューによると解釈に幅を持たせるオープンエンディングにしたかったみたい。そもそもストーリーのある映画ではないわけだから。

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『春の画 SHUNGA』

 大英博物館で好評を博した「春画展」が、本国日本では3年も宙に浮いたまま凱旋開催されず、結局、大英博物館の展覧会とは違うかたちで、改めて永青文庫で開かれることになった経緯を描いた映画『春画と日本人』も面白かったし、勉強になったが、今回の映画は春画のより深いところに迫っている。
 名作と言われる鳥居清長の《袖の巻》や
 

鳥居清長《袖の巻》
鳥居清長《袖の巻》

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鳥居清長《袖の巻》
鳥居清長《袖の巻》

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喜多川歌麿の《歌満くら》

喜多川歌麿《歌満くら》
喜多川歌麿《歌満くら》

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などは、春画のなかでも粋と洗練の極みなのが改めてよくわかった。こうしたマスターピースを生み出す山の頂から裾野にかけて、目も眩むような春画の世界が広がっていた。
 これも有名な葛飾北斎の「蛸と海女」

葛飾北斎《喜能会之故真通》より
葛飾北斎《喜能会之故真通》より

 
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などは、その奇想もさることながら、どちらかというと目を引くのは、デッサンの確かさだと思う。のけぞって突き出ている腹とそのせいでうわずっている豊かな髪、そのうなじを支えている子蛸の腕、蛸の手と絡む女の腕など。ここまで少ない線で女体の肉感が出せるものだろうかと感嘆してしまう。よく見るとタコの手がクリトリスの皮を剥いている。
 もちろんエロいのだけれど、そのエロさをこちらに伝えてくる北斎の画力に魅了されてしまう。北斎は全画業のほんの一時期しか春画を描いていないそうだ。
 話がズレるが、北斎春画はもしかしたら娘の葛飾応為が描いてるんじゃないかと妄想してしまう。北斎自身も「女は応為のほうがうまい」と認めているし、ありうるんじゃないかなと。
 いずれにせよ真相は判りようはないが、今という時代は、北斎が齢90まで絵を描き続けたという逸話と同じくらい、晩年の絵はほとんど葛飾応為が描いていたという妄想が愉快な気がする。女性だからこそこれが可能だったんじゃないかと思わせる骨格の確かさがある。
 

勝川春潮《好色図会十二候》
勝川春潮《好色図会十二候》

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 『哀れなるものたち』の時にも書いたが、こういうおおらかな絵を見ていると、ひるがえってキリスト教が性生活に及ぼした抑圧がよくわかる。その抑圧がクリトリスの切除にまでいってしまう。キリスト教徒にとって女は聖母マリヤなのだ。男の性欲が常に背徳感と繋がっているので、女性を神聖視する裏返しとして女性に快楽を許さない。キリスト教徒にとって、悪魔的な快楽は男の占有であって、女はその捌け口でなければならないのだ。
 仏教での色欲はもちろん煩悩ではあるけれど罪悪ではない。時々、浄土真宗キリスト教が似ているっていう人がいるんだけど、たぶん煩悩と罪悪の違いがわかってないと思う。煩悩即菩提とか悪人正機とかいう考え方は神がいないからこそ可能なのだと思う。

月岡雪鼎<四季画巻>「冬」(1767-1778)[ミカエル・フォーニッツコレクション]
月岡雪鼎<四季画巻>「冬」(1767-1778)[ミカエル・フォーニッツコレクション]

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 月岡雪鼎のこの絵などは愛液に濡れた陰毛が美しい。ここに描かれているのは間違いなく愛なのである。

 今回、歌川国貞の《相生源氏》の実物が紹介されてた。空刷りと言われるエンボス加工に加えて、これは技法が豪華すぎて画像で紹介できない。動画でしかわからないだろう。ぜひ映画で見てください。 
 歌川国貞は、往時は大変な人気を博した絵師なんだけれど、今、一般的な浮世絵の展覧会などに行くと、粗製濫造のためもあって、この人が何でそんなに人気があったのかよくわからない。永井荷風国芳の方が上だと書いていた。
 しかし、春画も含めて女の絵となると国貞は輝きを増す。《相生源氏》は、とうてい版画とは信じられない。肉筆じゃないのかと疑いたくなる。春画はそもそも表向きの販売網に乗らない絵なので、規制もないし、コストも度外視して作れたということもあり、当時の刷り師、彫り師の腕前が存分に堪能できる。その意味でも春画をちゃんと見ておくことは重要だと思う。
 明治の廃仏毀釈的な日本文化の否定の反動で、春画のおおらかで肯定的な面を強調したくなるが、もちろんそんな一面だけではないことは、先ほどの北斎の絵からもわかる。

勝川春英《春画幽霊図》(1800年代初)(ミカエル・フォーニッツコレクション)
勝川春英《春画幽霊図》(1800年代初)(ミカエル・フォーニッツコレクション)

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 この幽霊はどういうことやらようわからん。
 
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『落下の解剖学』ネタバレ。

 雪の山荘でひとりの男性が転落死する。その殺害を疑われた妻をめぐる法廷劇。というと、例えば、三谷幸喜の『12人の優しい日本人』も、ホロコーストの有無をめぐって争われた『否定と肯定』も、コミカルであれシリアスであれ、真実をめぐって争う両陣営のやり合いがそのまま映画のドライビングフォースになっている場合が多いのだけれど、今作は、疑われた妻が主人公で、彼女自身も真相がわからないまま、真実とはまったくかけ離れたところで、彼女に対する評価がゆれうごく、もちろん、観客の寄り添い方もゆれるわけで、そうした、評価の揺れに翻弄される女性に視点があることがユニーク。『12人の優しい日本人』を比較に出せば、あの法廷の被告は姿も見せない。
 翻弄される主人公に、サンドラ・ヒュラーのニュートラルな存在感がすごくマッチしていた。面白いのは映画の中で彼女だけがドイツ人で、あまりフランス語がうまくない。とはいえ職業は小説家でそこそこ売れている人なので、自己を表現する術を知らない哀れな被告って感じではない。その設定もニュートラルに設えられている。
 監督はジュスティーヌ・トリエ。脚本はアルチュール・アラリとの共同脚本。この2人は実生活で夫婦だそうで、映画内で死んだ夫も作家なので、この法廷劇は、一方で、私小説的なリアリティも兼ね備えている。ちなみにアルチュール・アラリは『ONODA 一万夜を越えて』の監督、脚本をした人。『ONODA 一万夜を越えて』も、日本での興収はどうだったか知らないけど、政治的なメッセージや、戦争映画的なアクションではなく、敗残兵の日常を描いていてすごく面白かった。
 作家夫婦、映画作家夫婦って存在も今ではそんなに珍しくない。夏目漱石の奥さんが実は作家なんて状況はちょっと想像しづらい。もっとも、夏目鏡子夫人はのちに『漱石の思い出』を出しているけれど口述筆記である。漱石の時代の作家は暗黙のうちに教養のスタンダードだった。良くも悪くも、今、作家は文化人よりも芸人に近いし、何ならそうあることを求められている。『ラ・メゾン 小説家と娼婦』の作家なんて小説のために娼婦になってる。
 すべてがフラット化する時代の法廷劇が、たぶん初めて描かれたんだと思う。もっと面白くしようと思えば、夫婦ともども作家なわけだから、谷崎潤一郎の『鍵』みたいに、夫婦それぞれの視点から、それこそ『羅生門』スタイルに描くこともできたかもしれないが、それを今やるよりは、このフラットな感じが良かったのではないか。
 この辺からネタバレになる。読んでもそんなに鑑賞に影響ないかもしれないけど、これから観る予定の人は読まないほうがいいかも。
 旦那のスマホに残されてる夫婦げんかの音声が殺人の証拠にされかけるのも今風で面白かった。ありふれた夫婦げんかにすぎないのに、それが音声として記録されかねない時代でもある。殺すの殺せのの言い争いも消え去っちゃえば何でもないのに、記録されると何か意味を持ってしまう。ニュートラルな主人公の破綻をところどころで見せるのもうまいと思う。
 物語が進むにつれて、事件の真相よりも、死んだ旦那の性格とか、夫婦のありようとかがむしろ明らかになってくる。法廷劇に見せつつ、実はホームドラマで、最後は1人息子の証言で決着がつくけど、それで明らかになるダンナのダメさ加減に悲哀がある。冒頭の大音量の音楽が、そこでは顔を見せなかったダンナの心情みたいなものを、最後には浮かび上がらせる。
 インタビューを受けている奥さんの背後で、だんだんデカい音量の音楽がかかって話ができなくなるって、そんな始まり方が発明かもしれなかった。ふつうなら「ちょっと音楽止めてくれよ」って言いにいけばいい。でも、そうせずにしばらく我慢して結局インタビューの方をやめてしまう。その時点で殺人じゃありえなかった。
 最初は夫婦で口裏を合わせてインタビュアーを追い払ってるのかと思った。インタビューが煩わしいならありえるから。でも、まさか、奥さんのインタビューを妨害してるとは。そりゃダンナは悲しすぎる。自殺もしたくなるだろう。
 蛇足ながら、76回のカンヌのパルムドールです。

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赤えんぴつ in 東京武道館とオードリーのANN in 東京ドーム

 おそらく今年一年を振り返る時に必ず記録されるだろうふたつの出来事、赤えんぴつ in 東京武道館とオードリーのオールナイトニッポン in 東京ドームがこの2週間ほどの間に相次いで起こった。
 時代を感じさせるのは、このどちらにもTVが一切関係していないことだ。この間、TVで起きたことといえば、『セクシー田中さん』事件。これは単にTVの凋落というだけでなく、TVの道徳性の低さを確信させる結果になった。
 私の知る限りでは、『セクシー田中さん』のプロデューサーは今に至るまで何のコメントも出してない。原作改変が問題であるかのように語られているが、原作の改変なんてむしろない方が珍しいので、問題はこのプロデューサーのこの態度からうかがい知られる人間性ではないかと思う。
 このプロデューサーが原作者を裏切り、嘘をついて原作者から作品を騙し取ったことは明らかだと思われる。それ以外の可能性もあるかもしれないがちょっと考えづらい。
 だからこそ、このプロデューサーは何かの言葉を発する責任がある。それができないのであれば、何のプロデュースもすべきではない。ところが、このプロデューサーは平気な顔で次回作に取り組んでいたっていうから驚きだ。当然ながら、その次回作は制作中止になった。
 ここまでのいきさつを辿ってきて石井裕也監督の映画『愛にイナズマ』を思い出してしまった。MEGUMIが演じる女性プロデューサーが、松岡茉優演じる新人映画監督の作品を(ぜひ作品を見てほしいが、あえてこう言って間違いないと思う)盗む。
 そして、主演するはずだった役者が自殺してしまう。YouTubeのシネマサロンを主催している映画関連の宣伝プロデューサーをしていた人たちは、「こんなことはまずないだろう」と話していたが、石井裕也監督みたいに自主制作から来た人にとってはどうなんだろうか?。それに、現に『セクシー田中さん』みたいな事件が起こってるわけだし。
 『セクシー田中さん』のプロデューサーも女性なんだけど、なんのコメントも出さず、次回作に取り掛かってる図々しさを見ると、MEGUMIが演じたあの憎たらしいプロデューサーが思い出されてくる。
 原作者、脚本家、プロデューサー。今回、登場人物が全員女性なのも時代を感じさせた。

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『彼方のうた』ネタバレ含む

 去年の日本映画の中で『市子』をベストにあげていた人もいたそうだ。あの映画に主演した杉咲花は、私が彼女を初めて認識した『湯を沸かすほどの熱い愛』からとにかく上手い。しかし、杉咲花にかぎらず、その上手い演技を見たくないって感じ、分かっていただける人も少なくないと思う。
 演技が上手いってことは間違いなくよいことで、上手い演技を「くさい」とか「演技過剰」とか貶すつもりもないのだけれど、しかし、映画を観終わったあとに「演技が上手かった」って印象が第一に来る映画はそんなに好きではない。
 小津安二郎濱口竜介の映画はその対極にあるわけだが、そういう意味ではこの『彼方のうた』もまたそういう映画のひとつ。
 監督の杉田協士のインタビュー動画によると、主人公が参加している映画のワークショップは、監督自身が現に15年以上やっていることだそうで、映画のなかでは「あの日、あの時、あの会話」となっていたが、初めてカメラを回す人でも、その人の実際の記憶にあるひとつの短い時間を映画化してもらおうとすると、どうやって撮るか迷う人はいないそうだ。
 そうして迷いなく撮られた数秒間の映画は、シチュエーションがわからなくても、登場人物の関係を知らなくても、それを観る時いつも感動する。
 それを15年ずっと観続けている杉田協士にとっては、そうした「初めて映画を撮る人の人生の一コマ映画」が自分の中での映画のトップなのだそうだ。杉田協士がフィクションで映画を撮る時にも、それが越えられないハードルとしていつも意識にある。普段ワークショップで生徒さんたちに言っているように、説明はいらないので、ちゃんと自分の心の震えたシーンを撮るってことを自分の戒めにしているそうだ。
 そういうふうに撮られているこの人の映画の、前作の『春原さんの歌』は短歌が原作、今回はオリジナル脚本、というその違いは、撮っている時にその短歌が浮かんだか浮かばなかったかの違いにすぎないようだ。短歌が原作ってのを文字通りに信じちゃいけない気がする。
 監督自身が「こんなにネタバレ話していいかわからないんですけど」と言いつつ、主人公が「駅のホームで」と剛(眞島 秀和)に言う、どう目を凝らして観ても映画の中ではそれ以上わからないセリフは、監督も後で気がついたそうなんだが、第1作の『ひとつの歌』と繋がっているんじゃないかと、誰かのツイートで気がついたそうだ。
 また、喫茶店キノコヤの店員は、『春原さんの歌』の主役・沙知を演じた荒木知佳だが、あれは『春原さんの歌』から二年後くらいの沙知その人だそうだ。「映画が終わってもその人の人生は続くので」って言葉で思い出したけど、今泉力哉監督も『窓辺にて』の時にそんなことを言っていた。
 わからないところは観客がどう想像してくれてもいいそうだが、「こうですか」と聞かれれば「違います」と答えるそうだ。禅問答か量子力学論のような話。
 しかし、このスタイルの映画はこれでいったんケリがついたと感じているという監督の言葉もこちらの鑑賞後感に合っている。ラストシーンを撮った後、ファーストシーンを撮り直したそうだ。
 その意味で『春原さんのうた』を見逃したのは残念だった。配信はしてないそうなので『彼方のうた』に大きな賞でも撮ってもらって、その記念上映がされるのを待つしかないか。

彼方のうた Following the Sound
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『夜明けのすべて』

 三宅唱監督新作。
 この人の過去作品では佐藤泰志の小説を映画化した『きみの鳥はうたえる』を観た。これは原作も読んだので比較できるが、ラストが原作とまったく違う。このラストを撮りたいがためにこの原作を選んだんじゃないかと思うくらい。原作をよく読み込んでいると感じたし、映画が原作の批評でさえあるような素晴らしい脚色だった。
 しかし、キネマ旬報ベストテンで4冠を獲得した『ケイコ、目を澄ませて』は、世評の高さにも関わらず、そして、『きみの鳥はうたえる』が気に入っていたにもかかわらず、結局、観にいかなかった。
 『100円の恋』は好きだし、『ミリオンダラーベイビー』も観てるけど、女性のボクシング映画は、もういいかなって気分でもあった。それに、主演の岸井ゆきのは、『ピンクとグレー』、『やがて海へと届く』など実力派女優なのはわかってるのだけれども、今の気分として、たとえ上手い演技だとしても、見せどころが演技の力量であるような映画は億劫かもという、まったくの先入観で足が向かなかった。
 逆に言えば、その引け目があったからこの映画を観ることができたと思えば、一観客としてはそれはそれでよかったかもしれない。
 パニック障害を発症した青年(松村北斗)とPMS月経前症候群)を抱える女性(上白石萌音)が、偶然、同じ職場で働くことになる。一昔前前なら、バブルでイケイケの頃の日本なら、このシチュエーションはコメディでさえありえたかもしれない。しかし、今は、多くの人々がこれを他人事とは思えない。そういう時代的な確かさがある。その意味で『パーフェクト・デイズ』と似た手ざわりがある。あの映画と同じくこの映画も周囲の人たちの描写もすばらしい。
 あの会社について、監督インタビューでこう語っている。

「そういうところを見てくれるのは嬉しいです。それが、僕が今回やった仕事のほぼすべてだっていうくらい。ちょっと間違うと、ただのだらしない会社になったり、逆にシステマチックになりすぎたりする。あの絶妙なニュアンスを作れたのは、俳優陣のおかげです。」
「あの社員たち、超優秀なんです。彼らを演じたのは、自分より年上のベテラン俳優たち。プレッシャーはありましたけど、みなさんがこの映画を全身で楽しんでくれて、やっぱり一緒に作れた感じ。時間も限られた中、よく同じ画面内で、同時に複数の芝居をしてくれているなあと。」
 光石研をはじめ会社の同僚たちもすばらしいが、松村北斗の元上司を演じた渋川清彦もいい味を出していたし、丹念に描かれていた。
 「二人(松村北斗上白石萌音)をカメラで捉える際は、どんなことを意識していましたか?」、という問いに対しては
「二人を同時に映すこと。それも、なるべく等しい距離から。結果的にそれが一番面白いっていう発見がありました。それはさっき話したように、自分じゃなく相手を見ている、というか、相手を通して自分のことも再発見している二人だからなのかな。彼らの間には、目に見えない何かが生まれています。それをなんと呼べばいいかはわかっていないですけど、それが映っていると思います。目には見えないけど。」
「あと、二人がやりとりしているということのリアルを撮りたかった。二人の“間”は、たとえばカットバックで撮影すれば後から編集でいくらでも捏造できてしまうものですけど、そうではなくて、二人をそのまま産地直送したかった。」
 こういう作業が原作を実写化する意味なんじゃないだろうか。
 「社員の息子である中学生のダンくん(サニー・マックレンドン)が部活動の一環として、もう一人の部員と一緒に、栗田科学のドキュメンタリーを撮」るのも原作にはないそうだが
「これは青春小説ではないなと思ったんです。働く人たちの物語ですよね。だからこそ、彼らより若い、就職する前の人にも出てきてほしいなと思って。」
 と同時に
「インタビューでこの会社が何をやっているかを端的に説明できるし、なんて考えていたら、それ以上に、めちゃ魅力的な二人に出会えた。二人とも真剣で、めちゃ好きでしたね。」
 ラストも原作とは違うそうだ。インタビュー記事にリンクしておくので是非確認していただきたい。原作小説の映画化はそれ自体がひとつの創造であると言えるのはこういう行為を指すと思う。
 たとえば濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』の原作は村上春樹の短編だけれども、原作を離れつつ村上春樹の世界観を感じさせる。それでいて濱口竜介自身の演劇論でもある離れ業のような脚本だった。カンヌで脚本賞を獲ったのもうなづける。
 話が逸れてるのは、『セクシー田中さん』の事件があったからで、小説から映画への脚色の場合は、時間的な制約があるし、文字作品を視覚作品に移し替えるわけで、映画化は初めから脚色が折り込まれている。
 これに対して『セクシー田中さん』のようなマンガからTVドラマという場合は視覚作品から視覚作品への翻案である時点で、原作の持っているイメージの力強さを実写が超えるってことは至難の業。実際には、TVドラマのキャラクターは原作のイメージに依存している場合が多い。ハリウッドでも日本マンガの実写化で成功した例は思いつかない。
 つまり、『セクシー田中さん』の脚色は、設定やイメージをほぼ全面的に原作に依存しつつ、原作に対するリスペクトも批評性もない、原作に対する冒涜だったと結論してよさそう。
 想像するに『セクシー田中さん』の脚本家は、原作を読み込むこともせず、設定だけもらって、流れ作業でありきたりなラブコメディーを量産するだけが得意な、TV局にとってだけ便利な脚本家だったのだろう。それがよい脚本家とされている日本のTVドラマの現状からはよい作品は生まれてこないのだろう。

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