「誰も守ってくれない」

knockeye2009-02-01

猫を抱いて象と泳ぐ

猫を抱いて象と泳ぐ

 二月はぬけるような青空で始まった。
 映画館の暗闇にもぐりこむのはもったいないようだけれど、映画代が1000円になる日曜日をみすみす見逃すわけにもいかない。
 チケットカウンターは長蛇の列。こういうときは「Vit」(ヴァーさんの粋なたくらみ)が役に立つ。昨夜のうちにネットでチケットをおさえておいた。前に、チケットを買うだけで20分以上かかってしまって、開演ぎりぎりに滑り込んだことがあった。今日は込むのが分かりきっていたので。
「誰も守ってくれない」
主演、佐藤浩市志田未来。監督・脚本、君塚良一
 予備知識なしで、佐藤浩市の名前だけで見に行ったようなもの。それと、キャンペーンでちらほらテレビ出演していた志田未来のキレがよかったので。
 そんなわけで、監督・脚本とも君塚良一とは、映画を見てから気が付いた。細部が共鳴しあって厚みがあるよい脚本で、ずしりとした見ごたえがあった。
 ふつうの刑事モノと違って、事件の解決は主筋ではない。主役の刑事はそもそも事件の担当刑事でさえない。加害者の家族、刑事、被害者の遺族、この映画の主役たちは、事件の生み出した暴力に翻弄される存在である。そしてその暴力がどこからやってくるのかさえ誰にも分からない。
 だれもが事件と能動的な関係を持てないことで、かえってリアルな感情がドラマを動かしていく。彼らは、事件について何もできないにもかかわらず、それについて考え続けなければならないから。
 うまいと思ったのは、加害者の家族と被害者の遺族の感情の、時制を大きくずらしているところ。それをひとりの刑事が結んでいる。
 もし、仕事と割り切ってしまうような刑事ならば、感情の距離は一番遠い立場でいられるはずなのである。しかし、共鳴し責任を感じてしまう刑事の存在。
 あるインタビューによると、君塚良一は、脚本の一行目に「ザラザラした男」と書いて、佐藤浩市を思いつき、脚本全体を「あて書き」したそうだ。
 佐藤浩市は、この脚本について
「それぞれが腰をぐっと上げるところで映画が終わるんですね。」
と語っている。
 西伊豆のペンションが出てきたとき、これに似た風景を最近映画で見たと思った。後で思いついてみると、リチャード・ギアダイアン・レインが共演した「最後の初恋」の舞台、ローダンテを思い出していたのだった。
 あの映画でのリチャード・ギアは患者を死なせてしまった医者の役だった。今回の佐藤浩市と役どころが似ている。しかし、脚本は君塚良一の方が格段によい。
 アメリカ映画のストーリーを紡ぎだす才能は衰えつつあるのかなぁという変な感慨にふけった。