百合の心、黒髪、その他の短編

百合の心・黒髪―その他の短編 (講談社文庫)

百合の心・黒髪―その他の短編 (講談社文庫)

この短編集の表題にもある「黒髪」が、先日読んだ『円朝芝居噺 夫婦幽霊』の発端に用いられていたので、興味が湧いて読んでみた。
巻末の作者覚書によると、この小説で作者が目論んだ「奇妙な魂胆」は、折口信夫の『日本文学啓蒙』や三島由紀夫の『日本文学小史』など
「偉大な先人が論でやろうとしたことを小説でやれないか、ということだった。主人公を「日本文学史」にして物語る。
それが『黒髪』である。」
それが「黒髪」であるところが、辻原登辻原登たる所以だろう。
円朝芝居噺 夫婦幽霊』と共通するテーマは「小説とは何か」という問いだったのだろうか。それを論ではなく小説でやってしまう離れ業だが、読んでいると、日本の文学は「論」ではなく「小説」で語る方が正しいのではないかとという気さえしてくる。
近松秋江の「黒髪」と、大岡昇平がそれを論じた「近松秋江『黒髪』」、そして大岡昇平自身が後年ものした近松秋江と同名の小説「黒髪」。このかかわりを論じたあたり興味深かった。
近松秋江『黒髪』」には大岡昇平の「秋江に限らず、『私小説』における『自己を欺く』一人称『私』との戦い」という決意が読み取れると書いている。
「心とからだを根底から使いきろうとする。あるいは、私は生きる、私は悔いる、私は恨する、そういう心機に乏しいのが、われわれの『私』の特徴なのです。」
日本の一人称には確かにとってつけたようなところがある。そもそも日本語の一人称「私」は、3〜4音節もあり、こんなに長たらしい一人称はあまり例がないと高島俊男が言っていた。それで高島俊男自身は「余」という一人称を使っているそうだが、これはもろに中国からの輸入品だろう。大昔はきっと「吾」という字を今は当てる「あ」が日本人の一人称だったんだろう。大阪の一人称は割りと短いけどね「わい」だから。
「私」という一人称ですら翻訳語だとすれば、日本人を考えることはとてもややこしいことになる。
世界に類のないオリジナリティーを持ちながら、自我を語る一人称を持たない国。
そういわれてみると、このブログでも「われわれ」とか「わが国」とか書くときには少し躊躇する。うそ臭い感じがするのだ。皆さんはどうでしょうか?