山水に遊ぶ 江戸絵画の風景250年の後期B

菅直人のお膝元、府中市美術館に
「山水に遊ぶ 江戸絵画の風景250年」の後期Bを観にいった。
全部でちょうど100点の作品を三回に分けてちまちま展示したわけだが、こういうのもよいかも。
もちろん、忙しいときだと
「一回で全部展示してくれよ」
と思っただろうが、今くらい暇だと三回にわたってじっくり鑑賞してみるのもなかなかよい。
後期Bで加わった作品の白眉といえばはり、円山応挙
「海辺老松図襖」
になるだろう。
一番右端の松が少し気になったけれど、余白を大胆に残した構図の力で茫洋とした海の広さや潮風に抗して立つ松の匂いまでしてきそうである。
曾我蕭白の「月夜山水図屏風」も前回に引き続き展示されているが、
「画を望ば我に乞うべし、絵図を求んとならば円山主水よかるべし」
と噛み付いたにしてはおとなしい、というか、生真面目な絵である。
部分部分のひらめきにくらべて、引きで全体を見たときの印象は薄い。たぶんちょっと描きすぎてるのだ。画面全体からあまり躍動感が感じられない。
金泥で描かれている霞など定規で引いたようにまっすぐ。この人は霞も霞というオブジェとして描いてしまう。岩も山も木も瀧も月も、塊としての存在感は強い。その代わり空気感がない。
モネの「日の出 印象」は、水墨画にインスパイアされたのだと思うのだけれど、多分、蕭白水墨画はそういう方向とはまったく別のものである。
村上隆蕭白ピカソを比較していたけど、「月夜山水図屏風」の左双の岩山は、たしかに、初期のキュービズムを連想させる。たとえば、セザンヌの「カルダンヌ」とか。
蕭白はこれを描いたときフォルムに意識が集中していたのだろうと思う。ああいう岩の描き方は水墨画としては独特だろうと思う。
ただ、絵全体の構成としては、おさまりが悪い。良くも悪くも、ごづごつしている。神をも恐れぬたとえをいえば、キュービズム時代のピカソの絵がなんだかわかんないのと似ている。
京都で見た展覧会で、若冲蕭白、芦雪の名前は同時に記憶に植えつけられた。今まで蕭白の印象は極彩色の人物画のほうにあった。いつか蕭白の画業全体をまとめて見てみたいものだ。
長澤芦雪の「蓬莱山図」はやはりいい。応挙の不肖の弟子にして無頼の画家だが、もし蕭白ピカソだとすれば、芦雪はマチスである。リズミカルな線の美しさは他の追随を許さない。
応挙も蕭白もまじめという点では似たもの同士だが、芦雪はそういうことは超越している気がする。
珍しいところでは、白隠禅師の「富士山図」。
「おふじさん、かすみの腰巻とりゃしゃんせ、雪の肌えが見てみたい(だったかな?ちょっとうろ覚え)」
というありがたい賛が付いている。
この展覧会の特徴は蘭画の展示が多かったこと。
全期間展示されていたのだが、安田雷洲という画家の
「山水図」
というそのままの題の掛け軸が気になっていた。変わったタッチだなと思って。
今回貰ったガリ版によると江戸在住の御家人蘭学者。画家としては葛飾北斎の弟子で、銅版画を多くものし肉筆洋風画もあるそうだ。
美術館を出て、またまた前回と同じコースで新宿なのである。
今回こそ、ビックカメラ液晶モニターを買うつもり。
私のパソコンはXPだし、微妙にワイド画面に対応していないかという気がしたので、安全を期して4:3画面の液晶にした。別にそれでよかったのだけれど、ワイドの方が却って安いので困っていたのだ。
前回気がつかなかったけど、さらに安い4:3画面の液晶があったのでそれを買ってきた。感動的な画質というわけではないけど仕方ないのだ。
昼間はさわやかだったけれど、日が暮れると寒い。夜、サミットに買い物に行ったら暖房が入っていた。