イン・ザ・ミソスープ

イン ザ・ミソスープ

イン ザ・ミソスープ

初めてこの本が出版された当時にこれを読んだとしても、私にはたぶん寓話的にしかとらえられなかっただろうと思う。
ひりひりとした危機感や現実感をここから感じ取ることはきっとできなかっただろう。
たしかに今の私たちは、単に小説にだけでなく、世界そのものにも、意味を求めることができない。意味というフィルターをかけた世界は、輝いて見えたとしてもどこかうそ臭く、その幻想は無意味なリアルの前では何の効力も持たない。
世界はつまり異物の総和でしかなく、私たちはそこに意思を照射するしかない。
言い換えると、世界に照射する意思として言葉が存在して、その反映として描写があるとすれば、小説は、予定調和として意味が存在する寓話でありうるはずがない。
こういう無差別殺人が日常的に起こりうる世界にすでに私たちは住んでいるわけだけれど、この小説はその世界の意味を解き明かしたりしないという点でいつまでもリアルであり続けるのだろう。
「近代が終わった」という言葉を、近代の中から見るとき、そこには意味しかないが、近代の外から見ると、そこには世界が広がっている。
迷子になった幼いフランクが、突然現れた母親を化け物だと思ったように、この世界に近代が現れたら、それは化け物に見えるのかもしれない。
渡辺直己村上龍は、対談で自然主義文学について興味深いことを語っていた。
渡辺 ・・・あれ(自然主義文学)は国家のことなど関係ないようだけれど、ある意味で人と人との差異をみつけると同時に収奪していくということがある。で、結局みんな均質になってしまう。
(略)
その意味で、近代文学の、とりわけ自然主義の発想は国家的なモデルをそのまま拝借しているわけですよ。
(略)
何を書こうが、実力のある書き手はその描写の過剰さによって、自と他の差をなしくずしに均質化していくような「国家」装置に抵抗しているわけです。
(略)
日本の、とりわけこの国の文化風土では、他人がほんとの他者として迫ってこない。
(略)
結局のところ、あなたも日本人、私も日本人、わかるよね、という格好の了解性ばかりが蔓延する。
(略)
だから、エッジにおいて他者と出会う、それが書く動機になるというのは、それ自身においてよい意味での非国民的な欲求なんですよ。村上さんはいつもそれを手放そうとしないから、非常に頼もしいと思ってるんですけどね。

と、しかし、これだけコラージュしてしまうと元の意味が損なわれている惧れがあるので、ちゃんと読みたい人はもとネタ(『存在の耐えがたきサルサ』)にあたってください。