もはや政党の‘姿’をしていない

 民主党の議員には、すこし、人格に問題があるようだ。
 それは、今回の松本龍の発言だけではなく、それを受けて、民主党内から‘首相に任命責任がある’というたぐいの発言が相次いでいるが、そんな当たり前のことを言う前に、同じ民主党の政治家として、または、政府執行部の一員として、東北のひとたちに何か言うべきことがあるんじゃないのか?
 安住淳国会対策委員長は、復興相交代について官邸から連絡がないことに不快感を示し、自分たちに配慮がないことに苦情を漏らしているが、前から気になっているが、そういう苦情は官邸に直接言えばいい。それをマスコミに向けて発信するということは、談話の内容とはまったく別の意味を持つことに、政治家として当然自覚的であるべきだ。
 上の発言の要点は、‘俺に配慮がないじゃないか。俺にひとこと断れれよ’ということで、まぁ、スタッフに気を遣っているていにはなっているけれど、こういう自己中心的な発言は、松本龍の‘案を出さないやつは助けないぞ’という発言と、じつは、同次元の発想ではないだろうか。
 しかし、政権政党の議員が、首相にたいして公然と‘辞めろ’と発言することは、発言の内容のお粗末さよりも、問題なのは、民主主義そのものに対する敬意を欠いていることだろう。
 民主党執行部が、首相に早期退陣を促していることについて、北沢俊美防衛相が、‘与党としてあるべき姿ではない’と批判したことがあった。
 敬意は‘姿’としてしか表れない。それは、自分と他者との関係のありようのひとつで、‘こころ’の問題ではなく、‘姿’の問題なのである。
 敬意の問題については、これまでも何度か触れる機会があった。たとえば、橋下徹君が代をめぐる強制の問題。
 国家や国旗に懐かしさを感じることは、国民としては自然なことだが、それを強制することは、民主主義の‘姿’ではない。
 こういうことを書いていると、だんだん明恵上人の「あるべきやうわ」に近づいてきてしまうのだけれど、そこまで話を広げてしまわなくても、国会議員が議員としてそこにいるのは、手続き上そこにいるにすぎないのだから、その手続きを逸脱しても、自分たちに行使できる特別な権限があると考えるのは、まったく不遜だ。
 総理大臣にむかって「逃げるのか」と叫んだり、皇太子ご夫妻に向かって「早くしろ」とか、民主党議員に暴言が目立つのは、自分たち自身がおかれている国会議員という立場に対する理解が欠けているからだろう。
 新聞にさえ言及があったのだが、もし、今回の松本龍の失言が、執行部が仕組んだ、いわゆる‘自爆テロ’なのだとしたら、野党と結んで首相を引きずり下ろそうとする、いまの民主党のありかたは、民主主義の‘姿’をしていない。民主主義に対する敬意を失っている。あえていえば、‘異形’であり、もののけのたぐいだろう。
 いま、もし、菅直人の次を担うつもりがあるなら、‘辞めろ辞めろ’のコーラスに参加して、烏合の衆に埋没するより、むしろ、菅直人に加勢して、延命を助けるというような、優れた政治力がある存在がいないものかなと残念に思う。
 前に書いたように、‘再生エネルギー促進法案’をめぐっては、党派をこえる集団が形作られつつある。菅直人の延命を助けて(も、そんなに待たされないだろうし)、その次を狙えれば、この集団をそっくり手に入れられる。
 逆に、烏合の衆に埋没したまま、代表戦など戦っても、またぞろ、小沢、鳩山、菅の三つどもえのどろどろに振り回されるだけなのだ。
 それより、政策の芯がしっかりしている集団の方が統率しやすいだろう?
 前原誠司野田佳彦あたりは、その程度には目端が利くと思ってたけどね。
 電力自由化が進まなければ、日本列島全体がガラパゴス化する。そのことには先日もすこしふれた。
 松本龍辞任をうけての渡部恒三の発言を新聞記事のままコピペするとこうなる。

 渡部恒三最高顧問も記者団に「国民、被災地のためにも一分でも一秒でも早く辞めてもらいたい」と、首相が挙げた2011年度第2次補正予算案成立など3案件に「一定のメド」がつくことを待たず、直ちに辞任すべきだと表明した。

 文字通り‘一分でも一秒でも早く’菅直人が辞めることが、国民、被災地のためになるはずもなく、まったくの感情的な発言にすぎない。
 で、新聞記者にはその本心を勘ぐられていることが、文章からうかがえる。‘3案件の成立を待たず’辞めてもらいたいというのが本心らしいと、上の文章は暗に示唆している。
 で、それを読んだ私はこう思う。渡部恒三の地盤は福島県だし、もとは自民党議員だし、‘再生エネルギー促進法案が成立してもらっては困るのは、自民党議員に限らないんだな’と。