藤牧義夫展

knockeye2012-03-03

 風邪が治まり咳が目立たない程度になったが、いきなり展覧会のはしごをするのも、体力的にどうかなという思いもあり(これは年のせいではない。私に体力があった時期は、全生涯を通じて一度もない)、鎌倉に藤牧義夫の展覧会を観にいった。
 まあもともと風邪さえひかなけりゃ、二週間前に行くつもりにしていた。というのも、白描絵巻の隅田川の巻が2月19日までだったので。
 実物は見逃してしまったわけだけれど、一つの展示室をつぶして、白描絵巻全巻を実際の巻物を展開するように、右から左へと壁に大きく映写してくれていて、むしろ、展示室にあったホンモノの白描絵巻(隅田川ではないもの)よりも、画家の意図に近いのではないかと思いさえした。
 白描絵巻は、面相筆による細い線だけで、延々と展開していく、言わば、リニアのパノラマ映像なのだ。
 したがって、そこには画家の私情などというものは、入り込む余地がない。こうした‘わたくし’の否定は、去年の秋に観たエドワード・ホッパーなどの‘アシュカン・スクール’を思わせた。遺された絵のなかでも、鉄の橋を描いた版画が特によいと思った。

 このころの日米は、新興国として、モダニズムを共有していたのではないか。少なくとも、この時代の日本には、近代の都市生活者が生まれつつあったように思う。
 私は、先の戦争は、田舎者が引き起こしたのではないかと、内心疑っている。あの右翼とかいう連中が振り回している‘日本’は、昭和になってやっと田舎者に支給された、昨日今日の日本だとすれば、言っていることは分からないではない。ただし、都会では、奈良平安の昔から連続する伝統というものがあって、どちらかというとそちらがホンモノなのだと思う。
 藤牧義夫は、1935年に突然失踪し、今に至るまで行方が分からない。
 重森三玲など、日本に根付き始めていたモダニズムの実例を、今から振り返ると、これが突然葬り去られたのはとても惜しい気がする。
 図録が小さくてその点は不満が残る。白描絵巻だけでも蛇腹にするとか、版画の何枚かは絵はがきにするとかしてほしかった。
 余談だが、鎌倉の神奈川県立近代美術館は、坂倉準三の設計だそうである。

 帰りがけにぼたん苑を横目で見たら、2月の末に降った雪が大事に(としか思えないのだけれど)残されていて、あざといっちゃあざとい、もてなしといえばもてなしの演出をしているようだった。カメラを忘れたので立ち寄らなかった。