その遊びの本気さに

knockeye2012-09-14

 いきなり訂正でなんともしまらないんだけど、ポール・オースターの翻訳は芝山幹郎ではなかった。柴田元幸。‘芝’しかあってないじゃないか!と突っ込みたいところだけど、‘芝’もあってない。
 こういうの、わたくしほんとによくあって、ディヴィッド・ホックニーの絵を観にいくつもりでホイットニー美術館展に行ったときは、展覧会の会場に入ってから初めて気がついた。これなど‘ホ’と‘ニー’しかあってない。あえていえば小さい‘ッ’。
 しかも悪いことには、本人はけっこうこういうの面白がっていたりする。
夢売るふたり」をめぐっての糸井重里西川美和監督の対談は、まだまだ好評連載中だけれど、今日の更新分は(‘も’かな)深くて、今回の映画にだけ焦点を当ててこの話を聞くと、ひとつの達成について話しているようにも聞こえる。「無力ということ」。
 「夢売るふたり」というタイトルもすごく上手い。映画を見終わってもう一度考えてみると意味が違ってきこえる。ナボコフは「人は小説を‘読む’ことはできない、‘読み返す’ことだけができる」といったそうだけど、それを思い出すほど、何層にも重なった、多角的な構造の映画だった。
 糸井重里というひとは、テレビの世界からネットの世界へと、するりと移行したおそらく唯一の人に見えるのだけれど、こういうことを偶然とか幸運で片付けるほど面白くないこともないのだから、何だろうと自分なりに考えてみると、本気で遊んでるおとなっていうことに尽きるかなと思う。それが結局プロってことなんだし。
 J.P.Morganの予測によると、iPhone5の発売が、アメリカのGDPを0.5%引き上げる。
 でも、iPhone5ってなんなの?っていえば、遊び以外の何ものでもない。スティーブ・ジョブズの遊びが、USAのGDPを0.5%押し上げるわけ。
 本気で遊んでる大人がいないと世の中、つまらなくない?「年収300万で幸せ」っておとなばかりではさ。
 西川美和という人の遊びは本気だわ。見終わった後、うちのめされた気がしたのは、その遊びの本気さに負けたんだなと思う。
 ところで、書き忘れているうちに週末になるので書いておくけれど、先週末に行った展覧会は、町田市立国際版画美術館で開かれている「隆盛する戦後の欧米版画」。
 今度はほんとうにデイヴィッド・ホックニー。デイヴィッド・ホックニーとロイ・リヒテンシュタインのふたりがやっぱり、目の高さというか、視界の遠さというか、そういうところで目を惹きます。
 他には、ジョセフ・アルバースの『形成・連接』より(From<Formulation:Articulation>)のスクリーンプリント、クレス・オルデンバーグの『ノート』というリトグラフ
 それから
<私は多くの人と一緒に写真を撮られる夢を見た。私は突然舞い上がり、部屋中を飛び回った。途中、ドアの外に出ようとしたが、出られぬまま部屋中を飛び続けた。私は降りて母のそばに座った。母は「よくがんばったのね!」と言った。>
という、ジョナサン・ポロフスキーのスクリーンプリントも好き。