古径と土牛

knockeye2013-12-15

山種美術館で特別展「古径と土牛」。
私はもともと小倉遊亀が好きで、その縁をたぐって小林古径も好きになった。奧山土牛は古径の弟子だそうだ。ちなみに古径は梶田半古の弟子。
明治40年「闘草(くさあわせ)」、「大毘古命図」などを観ると、古径の絵は、まだその前の世代、横山大観の時代のいわゆる‘朦朧体’に見える。色の濃淡で奥行きや立体を表現しようとしている。ところが、明治34年頃とされる「小督」で目を奪われるのは、何と言っても、線の美しさ。これに比べると、前のふたつは習作にしか見えない。この製作年が確かなら、線の確かさは天性のものだったと言える。
すでに伝説なのかもしれない、大正11年、日本美術院の留学生として、前田青邨とともに渡欧し、40歳となる翌大正12年(1923)、大英博物館で、伝顧凱之《女史箴図》の模写に取り組んだときに、東洋の絵の線の美しさを確信した。渡欧する直前に油絵もものしているが、結局、それが生涯唯一の油絵となった。帰国後、古径の作風は定まったように見える。
一方で、後年、セザンヌに刺激を受けて、静物に取り組むようになった。セザンヌと古径という比較は、セザンヌピカソセザンヌシャルダン、という比較より、わたしには楽しい。
「何かの本で読んだのだが、セザンヌが、
『まあ一通りは塗れた。これで生命が這入ればいいんだ』
と言ったそうだが、つまりその生命というやつが大切なのだ。一通りにかけていたって仕方がない、そこへ生命を盛りたいと思う、盛らなければならぬのだ。
ここにあるこの盆一つにしても、じっと見ていると生きている気がする。叩けば音がするし盆には盆の生命のあることがわかるのだ。ところが、それを絵にすると、なかなか音がしない。音のする盆をかくのは大変だ。写実というのも、そこまで行かなければ本当の写実ではない。」
1935年5月の『美術評論』に古径が書いた文章。
ここでいう「写実」は、西洋画の写実よりも、応挙の「写生」に近い。こうして大正の終わりごろに、日本の絵は、西洋コンプレックスから抜けだすわけだった。
下村観山と同じく、小林古径にとっても、原三渓の存在は大きかったようだ。古径を原三渓に引き合わせたのは岡倉天心だったそうだが、作品を高額で購入するだけでなく1911年頃からは月々百円ほどの援助さえしていた。それに加えて、宗達光琳などの名品に触れる機会が得られたことが大きいと思う。こうしたパトロネージの存在が美術には欠かせないと思う。
静物はどれも絶品だが、人物画では「西行法師」。猫の銀細工を抱えて走り去る子供が、やけに小さい。西洋的な遠近法を無視しなければこれは描けない。当然、あえて無視している。意図的に遠近法を無視することを表現の手段とするまでに、日本の画家が西洋の技法を消化し尽くしたことをこの絵は示している。
ちなみに、図録がもう売り切れてしまっていて、たまたまショップの方の親切で、表紙にすれがあって残っていたものを売ってもらった。小さな仕合わせで良い日になった。