「ブルー・ジャスミン」

knockeye2014-05-30

 「ブルー・ジャスミン」と、テネシー・ウィリアムスの「欲望という名の電車」の関連性については、みんな言うみたい。小林信彦週刊文春に書いていた。
 「欲望という名の電車」は大学の講義で習ったと思う。つまり、それはそうとう昔のお話なんだけれど、それを21世紀の現在によみがえらせるのは、ウディ・アレンの語り口の見事さでもあるし、アメリカの気分がすこし後ろ向きということでもあると思う。
 ずっとウディ・アレンに興味なかったんだけど、「恋のロンドン狂想曲」以来は、欠かさず観ている。それは、日本での公開がそのひとつ前だった「ミッドナイト・イン・パリ」をどうしようか迷いつつ観なかった、その反動っていうのも変だけど、そういう感じ。
 「ミッドナイト・イン・パリ」は、スコット・フィッツジェラルドが乱痴気騒ぎしている、大恐慌直前のパリにタイムスリップって、そこまで露骨に懐古的になるのはちょっとっていう、自制心が働かざるえなかった。
 小林信彦によると、以前は、ウディ・アレンを観ようとすると、恵比寿の映画館にいかざるえなかったが、「ミッドナイト・イン・パリ」以降、‘カネの取れる’監督ということになったらしい。
 ‘カネの取れる’ようになってからの観客としては、いささか気の引ける感もあるけれど、ウディ・アレンの映画を観にいく感じは、落語を聴きに行く感じとほとんど同じで、演目の問題ではなくて、語り手目当て。ネタはどうあれ、仁鶴ならいきましょ、雀三郎ならいきましょ、ていうそういう感じ。
 ウディ・アレン師匠、今日はどんなお話ですか?ていうと、今回はジャズのおうわさで、というわけ。折にふれて流れるジャズのスタンダードナンバーがテーマだからこそ、この物語が、新聞の三面記事ではなく、映画になる。
 容姿が美しく生まれついたことが、とくに女性にとって、幸せかどうか、これは、哲学的であると同時に官能的な設問だろう。美とは何か、幸福とは何か、という問い自体が、哲学的であると同時に官能的なんだし。
 にもかかわらず、現に、美しい女はいる。そして、たいていの美しい女は、美しさの利用価値を学ぶ。これについて異議を申し立てる女性はまずいない。
 美しい女が幸せに暮らしました、では、当たり前すぎて物語にならないが、美しい女が不幸になるという異常事態について、どのような説得力をもたせるかにストーリーの質がかかわっている。
 「アンナ・カレーニナ」の言葉になぞらえれば、「幸福な美女は似たようなものだが、不幸な美女はそれぞれに違う」わけ。
 ジャスミンがアメリカ的なのは、奇妙に倫理的なことだ。ジャスミンと対比的に描かれている、‘そうでもない’妹、ジンジャーの方は、‘そうでもない’なりによろしくやって生きている。それに較べてジャスミンは、美女としてのプライドが高すぎる。
 映画の途中で「そこはそいつに抱かれときゃいいじゃねぇか、カネないんだしよ」とか、「そこは目ぇつぶっときゃいいだろ、暮らしは保証するっていってんだから」と、つっこんだのは、わたしだけではないと断言するけれど、おそらく、誰も口には出さない。その意味では、みんな、ジンジャーよりジャスミンに似ている。そうじゃないですか?。
 美しい女が幸せになるとはかぎらない。それも、よく考えれば当たり前のことだけれど、そんな諦めに似た景色に、ジャズはよく似合う。
 私は、ジャスミンが電話を切った後、泣く場面が好きだ。ジャスミンがただのイヤな女だったら、あそこで泣かなくていいはずだから。実際には、あの時点ですべての結末を覚悟していたと言っていいのだと思う。