ツルゲーネフの『はつ恋』という、岩波文庫でいえば☆ひとつくらいの(若い世代はなんのことか分からないだろうけど、シュトルムの『みずうみ』とか、『歎異抄』とか、『方丈記』とか、みんな☆ひとつだったの。私が憶えているころは☆ひとつが100円、★ひとつ70円だった。なぜあんなまどろっこしいことをしていたのか知らないが、とにかくあれが岩波文庫の特色だった)ごく短い小説があるのだけれど、わたしはどうしても読み通せない。いかにも「さあさあ‘純愛’ですぜ、旦那」という感じがどうしてもなじめない。
考えてみれば、このブログでも「桐原あずさの『聖☆おま○こ女学園』の1は名作だよね」とか、書かないけど、書いたとしても別に恥ずかしくはないけれど(そういえば、こないだXvideo見てたら、波多野結衣の無修正ものが流れていて、あの人、顔もスタイルも肌もきれいだけど、あそこもすごくきれいでびっくりした。今、中国で蒼井そらの後を襲う勢いだそうだ)、愛とは、恋とは、とか、そんな恥ずかしいことはとても書けない。
今の世の中、性の情報はあふれかえっているし、セックスの話はオープンにするのに、たとえば、須賀敦子の若い時みたいに、女の子どうしで夜っぴて『人間のしるし』について語り合うなんてことは起こりうるはずもない。
内田樹がどこかでいっていたことを私が誤解していないとしたら、‘青春’は、‘近代’に特異的な事象であり、‘恋愛’が‘青春’の一局面であるとすれば、近代がようやく終わろうとしながら、それでもまだ近代の価値観を完全に客体視できない今、‘恋愛’は、とてつもなく狭い川幅を流れているか、さもなくば、すでに伏流水として地下に潜っているか、それを小説家が見つけ出すのは、ツルゲーネフの時代ほど一筋縄ではいかなくなっているのはたしかだろう。
小林信彦の『つなわたり』を読んだ(前置きながっ!)。すごくおもしろい(結論みじかっ!)。
小林信彦は、その今という時代に恋愛小説が可能な水脈を発見したわけである。まさか恋愛小説だったとは。してやったりと思ってるに決まってる。どや顔で阿川佐和子のインタビューに登場していた。
そのインタビューでいちばん意外だったのは、最近、筧美和子が気になっているとの発言。いままでずっと、おっぱい大きい子がきらいだったのにな。