並河靖之七宝記念館

knockeye2016-08-14

 両親とお盆のお墓詣りをすませた後、清水三年坂美術館で「明治の七宝」。観光客で賑わう三年坂にある小さな美術館だが案外混んでいない。一階は常設展で、私が入ったときは、安藤緑山の牙彫、柴田是真の象嵌、加納夏雄、正阿弥勝義の金工、などなど名品がずらりと並んでいた。
 2階が企画展で、並河靖之、濤川惣助、林小傳治、安藤重兵衛、川出柴太郎、粂野締太郎らが手掛けた明治の七宝。いつの展覧会で観たか忘れたが、久しぶりに椀の内側をビッシリ埋め尽くした蝶に再会した。うっかりするとザラザラした表面にしか見えないのだが、よーく見ると、一ミリに満たない無数の蝶が乱舞している。
 去り際に、並河靖之七宝記念館を紹介するフライヤーを見つけた。地下鉄東西線東山駅からすぐなので行ってみたかったのだが、なにせ殺人的な暑さ、三年坂を歩いたせいもあり、これ以上は両親の負担になるようなので、翌日にひとりで出かけた。ただ、危なかったのは、閉館が15:30だった。先に、旧梅小路機関車庫、京都鉄道博物館でぶらぶらしちゃったので、けっこうギリギリになってしまった。梅小路機関車庫は、30年も前の、線路の海みたいだった頃のワイルドなイメージが私には強くて、観光地化された今の感じは残念にも感じた。
 並河靖之七宝記念館は、どうやら今世紀に開館したらしい、元はと言えば、並河靖之の旧宅兼工房だそうだ。
 並河靖之といえば、明治の帝室技芸員の中でもビッグネームではないだろうか。特にヨーロッパでの人気がすさまじく、パリ万博のころは、並河靖之の七宝というだけで、箱を開けるのも待たずに売約済みになったと聞いている。バイヤーの奪い合いで、百円の品が瞬く間に千円になった。並河靖之本人も「もったいないほど」売れたと語っていたらしい。
 ところが驚いたことに、並河靖之の生家は七宝に携わっていたわけではなく、生まれは武家の三男坊で、11歳の時に並河家の養子になり、明治維新の頃までは、久邇宮朝彦親王の近侍としてすごした。明治維新で食い扶持を失い、まったく武家の商法で七宝を始めたそうなのだ。こんな武家の商法もあったわけである。
 七宝の技術は、尾張七宝町から人を迎え基礎を習い、後はほぼ独学のようだ。そして、第一次世界大戦で欧州の景気が下向き始めた頃に、大ケガをしないうちにと、家業をたたんだ。子はなかったために、養女に医師の婿を迎えた。そういうわけで、この七宝の技術は、一代で途絶えた。
 その後、この記念館を始めるまで、この家は空き家で放置されていた。取り壊そうかとしていたところ、窯跡が出てきて、家ごと国の登録有形文化財になった。
 わたくし受付の人にしつこく聞いてしまったのだけれど、ここの七宝はすべて並河靖之の頃から保存されていたもので、後から買い戻したものはないそうなのだ。並河靖之が几帳面な人できちんと整理されて保存されていた。これだけのものが、明治から今まで眠っていたわけ。こういうあたり、京都という町の懐の深さだろうか。
 また、庭が素晴らしい。並河靖之は「巴里庭」と呼んでいたらしい。その命名は、例のパリ万博の余得からに違いない。この作庭は、たまたま隣に住んでいた「植治」こと七代目 小川治兵衛。この人は、山県有朋の無鄰菴で知られる南禅寺界隈の別荘群を手がけた人で、これは琵琶湖疏水を引き込んで作った庭のさきがけとなるものだ。一目見て、石の使い方が斬新なのがわかる。



とくにこの高く持ち上げられたつくばいには驚いた。

6角形の縁側にも。

 小林信彦が「町殺し」なんてことを時々言うのだけれど、その意味では、少なくともまだ、京都という町は生きている。1200年も前にできた町なのにまだ生きているのにはびっくりしてしまう。
 せっかく夏の京都なので鱧を食い、たまたま二条城がライトアップしているというので見ていくことにした。ただ、午後7時からつうので、鴨川の三条河原で時間を潰した。

 浴衣を着て団扇で風を送りながら歩いているガイジンさんを見て、京都のブランド価値は日本のブランド価値よりはるかに上だと思った。