パロディ、二重の声 ――日本の1970年代前後左右

knockeye2017-02-28

 東京ステーションギャラリーで「パロディ、二重の声 ――日本の1970年代前後左右」って展覧会がやっとるんですわ。
 それで、ハッと気が付いてみると、いつのまにかパロディの時代が終わってるね。これって誰かが考えてみたことがあったんだろうか?。全然気にしてなかったけど。
 まあ、笑いの質が変わったっていうことを、いろんな人が発言するのは目にしてたんです。たとえば、千原ジュニアが週刊SPA!に持っている連載なんかでも、自分らがダウンタウンさんにあこがれてこの世界に入って来た、そのころと今とはウケる笑いが違うみたいなことを書いていた。それは、昔は、普通とちがうことをやったり言ったりしたのを、今は、こういうことあるよねっていうようなほうがウケるみたいなことだった。
 その変化をパロディと結びつけるのは、ちょっと強引なんだけど、笑いの質の変化ってことでいえば、有吉弘行なんかが再ブレークしたころの「あだ名」、品川を「おしゃべりくそ野郎」って呼ぶ、その笑いの質って何なんだっていえば、結構むずかしいと思う。すくなくともパロディではない。
 こないだ「今夜くらべてみました」にブルゾンちえみが出てて、それは川口春奈が好きな芸人ってことでゲストで招かれてたんで、フット後藤川口春奈に「ちょっとやってみたら(ブルゾンちえみのまねを)」って、振られてたとき、川口春奈が「あんな高度なことできない」って言ったのが印象に残った。川口春奈って、映画で主演したりする女優さんなんで、その「高度」っていう感覚で、今の笑いがうけとられているんだってのが面白かった。
 北野武がもうどちらかというと映画監督って立ち位置になったころ、「今の笑いは進化してる。今、コマネチとかやったら、それがどうしたって言われる」って、テレビで言ってたの憶えてる。そのときはダウンタウンの最盛期だから、念頭にダウンタウンのことがあったと思っていたし、おそらくそうだろう。
 でも、それからまた時がたって、今はまた笑いの質が変わっている。
 で、話をパロディに戻すと、パロディって時代はいつ終わったんだろうと考えてみると、ダウンタウンのころにはもう終わってたって気もする。ひょうきん族のころがパロディの最後だったのかもしれない。ひょうきん族がパロディに満ちてたのは間違いないと思う。たけちゃんマンもひょうきんベストテンもパロディなんだし。
 パロディが「ずらすこと」だとしたら、島田紳助のいっているように、松本人志のボケはそのずらし方が絶妙。絶妙すぎてもうパロディとは言えなかったと思う。その時代感覚との間合いっていうのか、それはもう今では松本人志自身も再現できないと思う。そのレベルだった。松本人志自身の分岐点を考えると、深夜でやっていた「ひとりごっつ」は、今の笑いに近いものだったと思う。だが、あれは、すこし時代を先取りしすぎていて一般にはウケなかったと記憶している。
 パロディって笑いのスタイルは、実はあまり高度ではないんだろう。素人でも簡単にまねができる。今回の展覧会でも赤塚不二夫のこんな言葉が紹介されていた。


 定番って言えるものが無意識にも信じられているときにパロディは笑いになりえたんだろうと思う。でも今は、無意識のレベルでも定番が無化しているんだろう。共感が得がたいものになっている今は、定番からずらすのではなく、ずらすことで共感をえられるような笑いがウケているのではないかと思う。
 パロディといえば、それこそパロディの定番として記憶されている、マッド天野の

これもあった。
 元ネタは白川義員

これであった。
 話題になった当時から、おもしろくもなんともないと思っていた。パロディって良くも悪くもこんなものだった。
 個人的には

こういうことにパロディの力を感じる。作者も訳者ももちろん偽名で、しかも、ほんとに誰が書いたのかわからないんだそうだ。
 「パロディの第一人者」とか「有名なパロディの先生」とか、それはやっぱりダサい。『ポルの王子様』って感じでなら、これからもパロディは生き続けていくと思う。
 そういう文脈とは関係なく、I.O.の≪レインボー北斎≫とか面白い絵もあった。元ネタの渓斎英泉の春画≪十開の図 仏≫からして、天台宗の「十界」のパロディなのだそうだ。しぶとく生き続けていくってわけなんだろう。