『ばるぼら』

 手塚眞が、父・手塚治虫のアニバーサリーに『ばるぼら』を映画化するのは、本人の意思でどうにかなるものではないにせよ、実子として手塚治虫のパブリックイメージを裏切りたかったのかなとかんぐってしまう。手塚眞という映像作家はジャパニメーションの偉大な始祖である父・手塚治虫に、ここでは、共感しているのではないかと感じた。
 作品全体を支配している無力感。に加えて、性的な不能感が重なる。マネキンとのセックス、あるいは獣姦を描いてはいるが、フェチズムに独特な偏愛の熱量を感じさせない。というか、ひとりの男が時にはマネキン、時には犬に性欲を覚える時点でそれはもう偏愛ではないわけで、むしろ、女性がマネキンや犬にメタモルフォーゼする描写は、積極的なフェチズムよりも、生身の女性との性交に対する忌避感と感じられてしまう。両方とも、結局、成し遂げられないし。というより、対象の破壊に終わってしまう。
 手塚眞は、卓越した映像作家なんだろうと思った。マネキンの方は片山萌美という、興福寺の阿修羅像と同じ顔ながら、首から下は、昔のアメリカ版プレイボーイのピンナップのような女優なので、キャスティングの妙ということなのかもしれないけれども、獣姦の方の、美波が月光の下で伸びをした瞬間の妖しさは、撮影監督のクリストファー・ドイルだけではなく、やっぱり、手塚眞の映像感覚なんだと思う。一瞬、人間じゃなく見える。
 ばるぼらの髪が気になっていた。あえてウィッグに見えるようにしているのだと思う。しかし、そのために、逆に、顔の人間らしさが際立ったようにも思えた。ばるぼらと再会するときにはウィッグではないので、主人公の近くにいるときウィッグであるのは演出意図なんだろうと思う。
 石橋静河の顔が一瞬マスクのようになるライティングもこだわりなんだと思う。
 全編、こんなふうに映像美で引っ張っていく。手塚眞にはその自負があると思う。ストーリーとかプロットというより絵巻物とかタペストリーのような絵画性を感じさせる。時間を感じさせない。クリスマスキャロルとか杜子春のように最後に振り出しに戻っていても驚かない設定だった。
 人形フェチ、獣姦に加えて、死姦が加わるわけだが、これもどこか人間の死体を感じさせない。どちらかと言うと、ピグマリオンの神話を思わせる。
 ピグマリアニズム自体が人形フェチと同じ意味だが、この場合はその元となったピグマリオンの伝説そのものを思い出させる。

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Edward Burne-Jones - Pygmalion and the Image - The Soul Attains

 仮面と顔、人形と人間、という対立項を描きながら、生と死の対立を感じさせないのは、時間性がないからだろう。虚構と現実の境目が曖昧なすべてが一幅のでであるかのような世界では、虚構が易々と死を超えていきそうに思えるからである。ユルスナールの『東方奇譚』にある「老絵師の行方」の世界だ。
 稲垣吾郎の演じる主人公の部屋が、モダニズムな内装からストリートアートのようなテイストに変わっていくのも面白かった。生と死を超えているだけでなく、その耽美的な世界さえ破壊したいと望む手塚治虫の欲求が垣間見えるように思えた。
 ばるぼらは、ファムファタルというには人間らしさがなさすぎる。女であるより人形のようなのである。しかし、ミューズというほどの閃きを、主人公にもたらしていないように見える。『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』と比べるとはっきりする。
 むしろ、主人公の死の欲動を託しているように思える。バスルームに沈んでいく感じも、首を絞められる感じも。そういう手塚治虫の死へ向かう欲求を、息子の手塚眞が描くのが興味深かった。

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