『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版」

 この映画はベルリン国際映画祭金熊賞を受賞している。日本で公開されているのはラドゥ・ジューデ監督による自己検閲版だけれども、垣間見るところ、あけすけなセックスシーンが満載みたい。
 ストーリーはシンプル。主人公の女教師のプライベートなセックス動画がネットに流出してしまう。それを理由に彼女を解雇すべきかどうかの会議、校長、主人公、父兄たちで議論が交わされる。
 構成はユニーク。三部に分かれている。第一部は主人公がルーマニアの街中を、校長宅まで歩いていくだけ。
 第二部は、資料映像的な。論文や伝記なんかを読むと巻末に参考文献が紹介されているけど、たぶんあの映画版なんだと思う。
 鶴見俊輔は本を読む前にあの参考文献の欄をざっと見ると言っていた。それだけで何が書いてあるかだいたいわかるそうだ。でも、大概の人はあんなとこ全然見ないだろう。つまりは読む側の教養の深さに応じて味わいが変わる。
 参考文献の欄はただ書名の羅列だが、ありがたいことにこれは映画なので、なんかわからんなりに面白い。
 そして第三部が、セックス動画が流出した女性教師の弁明。これはちょっとした法廷劇かそのパロディ。
 ちなみに霜降り明星せいやは、例の法廷でけっこうノリノリだったらしい。ふつうそういうのはセカンドレイプになりそうなんだけど、元がレイプではないし、笑わしにかかっていた、と太田光がラジオで言ってました。
 この議論の部分がいちばん面白いには違いないし、そこだけで成立しそうな気もするけど、一部と二部なしでは、金熊賞ってことにはならなかった気がする。
 映画的な深みと広がり。射程距離の長さ。10年後にも観なおしてみようという気にさせる。
 出演者が全員マスクをかけているのもいい。コロナ禍の時代の特異な感じをどんなふうに思い出すだろうか。
 今、世界を覆っている、猥褻をめぐる議論は行きすぎてる気がする。ウォーターハウスの裸婦画が美術館から撤去された話には衝撃を受けだけれども、山田五郎さんのYouTubeを見てたら、あれはパフォーミングアートの一部であったらしい。それを聞いてホッとした。もし本気でやってるなら気が狂ってる。しけし、起こりかねない時代ではある。
 アンバー・ハードジョニー・デップに対する訴訟には自由人権協会という団体が関わっていたそうだ。アンバー・ハードに訴訟の意思があったのかどうか。そうなるとほぼ讒訴に近い状況なのではないか。アンバー・ハードワシントンポストへの投稿はそもそも自由人権協会が代筆していたそうなのだ。そして、勝訴の際の賠償金の寄付が約束されていたとなると、何かしら変な匂いがする。
 「猥褻」というあやふやな概念については以前に詳しく書いた。

knockeye.hatenablog.com
 
 「猥褻」という概念自体が、実は差別の一大生産地帯だった時代のヨーロッパの歪んだ価値観にすぎず、いかがわしいのはむしろ「猥褻」という価値観の方だ。
  ところが、今まさに世間で行われているフェミニズムの議論の多くは、ほとんどそれとかぶっている。歴史を振り返ると、かなり危険か、もしくはかなり滑稽。
 ジョニー・デップにすれば冗談ではないのだし、他にも、ウディ・アレンのような何年も前に結審した、しかも自分が勝訴した裁判を蒸し返されて、映画界を追放されたケースは、これが#MeTooだとするとこれはまずい。
 SNSがたぶん地獄の封印を解いちゃったのだろう。ほとんど訳の分からない熱狂に晒されてるってことに気がつくべきだと思う。フェミニストを名乗る人たちのほとんどは、意識してかせずかは知らないが、隠れたヘイトクライムに熱中している。この状況下だからこの映画の知的で痛快な議論がさらに受けたってことはあると思う。
 ルーマニア映画ってのを初めて観た。ティルダ・スウィントンが主演した『MEMORIA』っていう、タイ人監督が撮ったコロンビア映画も面白かった。「頭内爆発音症候群」という頭の中で聞こえる音に導かれて旅をする人の話。これは主人公がメデジン出身なのがキーだろうと思う。メデジンメデジン・カルテルで有名な大犯罪都市だったのを、麻薬王の逮捕をきっかけに治安が急回復した。
 世界は変わる。コロンビア映画とか、ルーマニア映画とか、少し前までは想像もつかなかった。変われないのは弱さだと思う。フェミニズムは変化のように見えたのに、実はただの逆行だったのが悲しい。

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