『福田村事件』補遺

 岡田斗司夫の『福田村事件』評を聞いていたら「あの竹槍の突き方では人は殺せない」だそうです。サイコパスを自認するだけのことはあるけれど、確かに、この映画のラストの30分ほどをサム・ペキンパー風に血しぶきが飛ぶリアルな演出にするとどうなったかなとも思うが、そうすると前半の印象が全部飛んじゃわないかなとも思うがどうだろう。逆にコントラストが強くなったのかもしれない。しかし、私は今の演出でさえ一部は目を背けてしまった。そこにリアルを求めるかどうかは映画に対する考え方の違いでキズってことではない気がする。それに、実際の村民が竹槍を使い慣れてたとも思えないのだし、へなちょこがリアルだったかもしれない。
 切通理作によると、9月1日にふと見ていたテレビに、松野博一官房長官関東大震災当時の朝鮮人虐殺の記録がないとの発言のニュースが流れたそうで、マジで100年前と変わってねえじゃんと思ったそうだ。
 ここに補遺として書き足すのは、そもそもまったく私的な感想のそのさらに最たるものなんだが、パンフに『この世界の片隅に』のすずさんについて荒井晴彦が、「主人公の年齢からいって南京陥落の提灯行列とか絶対行ってると思う」と発言していてハッとした。
 というのは、私はなぜかあの『この世界の片隅に』を観られなかった。キネマ旬報のベスト1で、その上、小林信彦さんも褒めてた映画を観ないは、ちょっと考えられない選択なんだが、何故か観られなかった。少なくとも3回は行こうと試みた。その最後はユーロスペースだったが、壁面いっぱいにでかでかとあのキービジュアルがあって、どうしてもその下をくぐって劇場に入れなかった。
 蹲踞したすずさんが前掛けに野花を集めて振り返っているあの絵が、どうしても気持ち悪くて、これは観られないと思った。あの気持ち悪さの原因をそれからあれこれ考えてみてはいたけれど、荒井晴彦さんのその言葉を見て腑に落ちた気がした。あの少女の無垢さが許せなかったのだと思う。考えてみれば、『この世界の片隅に』の同じ原作者の映画で『夕凪の街 桜の国』を私は観ていた。その時に感じた違和感が小さなトゲになって残っていたこともあると思う。
 私は小倉の出身なので、長崎に原爆が落とされた日、小倉の上空が晴れていたら、私はこの世に生を受けなかったはずだ。しかし、それでも、アメリカが悪いって話では済まないと思う。日本人は広島のことは知っていても重慶のことは知らないとはよく言われることである。
 もちろん観ていない映画についてあれこれ言うことはしない。すずさんはただただ純真無垢な少女として描かれているわけではないのだろう。ただ、原爆を描くときに、野原で花を摘む少女がキービジュアルなのは、やはり許せなかった。あの時の気持ちはそういうことだったんだろうと思う。