『ゴジラ-1.0』ネタバレ

 封切からほとんど一ヶ月たって今更『ゴジラ -1.0』を観た。
 近年、映画の公開数が多すぎる。で、観たいと思っている映画を見逃す。先月はひと月で12本観てる。平均して1週間に3本観ている。それに加えて、Netflixで『ザ・キラー』と『ミュンヘン』を観たのだけれど、それでも見逃してる映画がある。たとえば『ミステリと言う勿れ』はもう見逃しそう。『女囚霊』も面白そうだったがなあ。
 そういうわけで、この増え続ける映画の波間で、YouTubeとかラジオとかの映画情報はどんどん重要度が増している。
 前は、宇多丸さんの金曜日のを毎週聞いていたのだが、いかんせん1週間に一本では、現在の公開本数とのバランスで、現実問題、参考にしてられない。
 今んとこ、YouTubeのシネマサロンが一番参考になる。週に4本レビューしてる。宇多丸さんの場合もそうだったけど、好みが合う時と合わない時はあるんだけど、さすがにプロだなあと思わされることが多い。
 YouTubeでは、他には、町山智浩さんと藤谷文子さんの「町山&藤谷のアメtube」。これはアメリカの雰囲気が直にわかるのが嬉しいし、藤谷文子さんはやはり演者の視点で見てるのでこないだの『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』のディカプリオの演技についての考察は参考になった。町山智浩さんのカソリックについての指摘も「ああなるほど」と思った。
 話がそれているようだけれども、何が言いたいかといえば、今やもう、ネタバレ大歓迎で、先に情報仕入れてから見に行こうという心持ちになっている。
 今回の『ゴジラ-1.0』も、YouTubeの「ホイチョイ映画生活〜この一本〜」の山﨑貴監督の対談で、重巡高雄や幸運艦雪風震電についてのオタクなこだわりを聞いて行きたくなった。
 いったん行きたくなったらもうその後は情報は遮断するけれど、観た後また感想戦をブラウズする。それで見逃してたり気付かなかったりしたことを補完できることが多い。
 絶対的な映画公開数の多さが鑑賞法を変えた。
 『ゴジラ-1.0』は日本よりひと月遅れで全米でも公開されたが、字幕版だけの公開に関わらず、週末の興行収入で全米3位、Rotten Tomatoesのスコアでも批評家97%、観客98%の高評価。
 東宝は、この『ゴジラ-1.0』の全米公開で初めて、Toho Internationalによる自社配給を行った。Toho Internationalは今年の7月に設立したばかり。「やっとかよ」って思いが強い。
 確か、二、三年前に日本映画が大ブームって時代があったと思うが、そうでなくとも、せめて『SHALL WEダンス?』の時くらいから、海外配給に力を入れてても良かったんじゃないか。
 それにしても、『ゴジラ-1.0』の全米での盛り上がりを見ていると、どうもアメリカ人にとって、「戦争映画としてのゴジラ」が初体験みたいなのだ。1954年の初代ゴジラアメリカでも公開されたのだけれど、よく知られているように、水爆に関する部分はバッサリ切られてしまった。
 その初代ゴジラのさらに先んずる時代を舞台にとった『ゴジラ-1.0』はそういう意味で、日本よりも米国に衝撃を与えているみたい。
 そのインパクトの大きさが、評価にバイアスを与えている感がある。
 個人的には、前半部分はマスターピースと言ってもよい。神木隆之介の演じる敷島は少尉で、戦争末期の特攻兵としては、突出して優秀なパイロットなんだろうと思う。なので、特攻を忌避して大戸島に不時着しても、それで罪悪感を感じることはなかったろうと思われる。その時点では、特攻を回避することのほうが正義だと思っていた可能性もある。整備兵たちもそんな敷島に批判的とは言えない。
 ところが、その夜突然現れた「呉爾羅」によって事態は一変する。敷島は「呉爾羅」を撃てなかった。そのことで多くの整備兵たちが命を落とした。もし撃っていたとしても効かなかったかもしれないが、問題はそこではなく、彼自身の自我が崩壊した。特攻を忌避した彼は強かったはずだった。それが「呉爾羅」を撃てなかったことで弱さに転換してしまった。
 戦争で負ったこのトラウマをどう克服するかがドラマの太い縦軸になっている。
 一方、「呉爾羅」は米軍のクロスロード作戦という核実験で巨大化する。この辺の描写がさらっとしてるのは、アメリカに対する配慮なのかもしれない。全米公開を視野に入れていたので、1954年版の轍を踏みたくなかったのかも。
 戦後、機雷処理で糊口をしのいでいた敷島がこのゴジラにふたたびあいまみえることになり、そしてさらに、その時、一緒に暮らしていた典子(浜辺美波)をゴジラの爆風で失ったことで覚悟を決める。ここまでの流れは完璧で息もつかせない。
 少し疑問が残るとしたらこの後で、敷島が戦闘機「震電」でゴジラに突っ込む。しかし、大戸島の生き残り整備兵、橘(青木崇高)の脱出装置のおかげで、敷島はゴジラが消えた海にパラシュートで降下する。このプロット事態はまったく素晴らしいのだけれども、その語り口がちょっとギクシャクして感じられた。
 橘が敷島に脱出装置の説明をする場面を、敷島が生き残った後に説明的に挿入したのはちょっとどうかと思う。敷島のトラウマがドラマの軸である以上、敷島と橘のその会話はドラマの最重要ポイントで、サプライズ的に扱うべきではなかったと思う。
 当然敷島が死を決意していると知っている橘が、脱出措置の説明をして「これで生きて帰れ」と語るシーンはクライマックスだったはずなのに、そこがサプライズ的に扱われたことで、アンチクライマックス的な「何だ?死なねえのか?」みたいな感情を観客に(私だけか?)与えてしまった点はあると思う。感動するのに頭で順序を組み直さなきゃならない。
 つまりプロットに問題はないんだけど、その語る順序で損してると思う。
 浜辺美波が演じる典子(小津安二郎の三部作を思い出させる)が、最後に生きていた設定については、あの爆風で飛ばされて生きていたのは、再生能力の高いゴジラ細胞に彼女が感染していたためだという設定らしい。
 彼女の首筋に映るケロイドのようなものは、あそこにグリーンのスクリーンを貼って撮影して、後からうごめく影を合成したということだ。
 ラストのゴジラの再生シーンとともに、だから、怪獣映画としては単なるハッピーエンドではなく、続編を匂わせて終わっている。が、今作としてはハッピーエンドにもとれるように作ってあるのもうまいと思った。山﨑貴監督は続編の意欲もありそうだ。
 

www.youtube.com


www.youtube.com