『花腐し』

 『花腐し』は、松浦寿輝芥川賞受賞作の映画化でもあるけれど、と言いつつやはり、荒井晴彦のシナリオという惹きが強いか。
 というのは、『赫い髪の女』は、中上健次の短編が原作なんだけど、原作とはほぼ違うものだった記憶。
 モチーフもピンク映画の終末期にまつわる人々だということもあり、荒井晴彦氏の経験に引き寄せて見ることができる。というか、そう観ない人いないでしょう?。
 さとうほなみは、『愛なのに』でも脱ぎっぷりよく脱いでいた。たぶん、荒井晴彦監督の好みというか条件に合う女優なんだろう。『火口のふたり』の瀧内公美も『彼女の人生は間違いじゃない』の脱ぎっぷりが目に止まったのかもしれない。
 さとうほなみの場合「脱いでますけど何か?」みたいな気負いさえ感じさせない脱ぎっぷりで、変な話、脱いでることがノイズにならない。
 これがまあ、二階堂ふみとか満島ひかりが脱いでると、観てるこっちもちょっとは「!」ってなってしまうが、さとうほなみの場合、たぶん褒めてることになると思うのだけれど、それがない。綾野剛が脱いでるのとおんなじくらいの感じ。
 この感じは何なんだろうと考えてみると、最後に脱いでたMINAMOがAV女優でもあるってことで何か納得できたんだけど、ふつうの女優さんは、AV女優が脱ぐようには脱がないんだと思う。
 MINAMOの役が、AV女優に憧れて留学してる中国人って役だったと思う。つまり、ピンク映画がAVに接続していく、その現場感っていうのは、描くのが難しいって思うんだけど、それをやってる映画なんだと思う。
 奇しくも、っていうのはおかしいんだけど、というのはそのシナリオを書いてるのが荒井晴彦なんだから、奥田瑛二演じる映画学校の先生が
「映画の歴史100年でやれる手法は全てやり尽くされてる。しかし、君たちが過去の巨匠に対して持ってる唯一のアドバンテージは、今生きてる人間を描けることだ」
っていう、まさにそういう映画だと思う。
 パトリシア・ハイスミスがしれっとヌードを撮って、しれっとレズ小説を書いたりしてるのと似てる気がする。『キャロル』は同性愛の小説で初めてのハッピーエンドだったと言われてるらしいが、たぶん、パトリシア・ハイスミスにとってはハッピーエンドですらなかったのではないか。
 レズの女性がパートナーと出会ってことに及ぶ。ハッピーも何も。パトリシア・ハイスミスにとっては目の前の現実を書いただけだろう。 
 一方で、今年観た映画の中でももっとも抒情的で文学的な映画だったのもまた確かだ。『濹東綺譚』みたいな。確かに奇譚でもある。全編が幻想的とも言える。非常に現実的でかつ幻想的。
 タイトルは万葉集の「春されば 卯の花腐たし 我が越えし 妹が垣間は 荒れにけるかも」からとられてるようだ。