屏風では松林図屏風と
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と、個人蔵なので撮影できなかったが、狩野元信の四季花鳥図屏風があった。狩野元信は、狩野派の二代目だが、事実上狩野派の基礎を築いた人なので300年後には様式化する表現のオリジナルが見られる。
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お正月なので富士の絵も揃えている。けど、仙厓のこの富士が正しい気がします。よく読めないけど、文政7年の元旦に日本橋で見た富士山らしい。この一筆書きの小さな富士が、江戸の元旦を思わせるのが不思議です。
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宋紫石は、南蘋派の画風を江戸に伝えた人だそうです。
福田美術館で見たように沈南蘋の絵は精細な花鳥画には向いているけど,富士山なんて精密に描いたとて。精密に描けば描くほどキッチュに見えるパラドクスは、私たちの共通認識にある富士の姿があまりにも強力すぎるせいかもしれません。
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老松図襖、雪汀水禽図屏風などの名作で知られる狩野山雪の掛軸、三幅対。
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「後白河法皇を中心に進行していた物語絵巻の制作が、建久3年(1192)の法皇崩御によって中止され、法皇の供養のために、未完成の料紙を転用して書写された写経です。下絵の題材は不明ですが、多くの人物の目鼻が描かれていないことから、「目無経」と呼ばれています。」
これを作った人たちにも当然「平家納経」の豪華さは頭にあったはず。将来「目無経」と呼ばれると意識したかどうか知らないが、もし悪意としても洗練されている。後白河法皇に対する当時の人たちの感情に思いを馳せてしまいます。
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「後小松天皇の子として生まれた一休は6歳で出家し、やがて悟りをひらいて権力に媚びない生き方をしました。その書は破格で、既存の書法と一線を画します。」
一休さんって天皇の子だったんですね。
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「天地を貫く五本の線(筋)が名前の由来です。藍と紫の飛雲を漉きこみ、金銀の揉み箔を一面にまいた料紙に『古今和歌集』巻第4の巻頭が書写されています。もとは粘葉装(でっちようそう)の冊子本でした。藤原佐理筆と伝わりましたが、今日の研究で藤原行成の曾孫定実自筆と推定されています。」
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「本作品は、江戸城本丸御殿の表と中奥を俯瞰でみた絵図です。表は公的な謁見や儀式等が行われた空間、中奥は将軍の生活空間です。この図の上方(北側)には御台所や側室が暮らす大奥があります。天保15年(1844)の火災後の再建時に作られたものです。」
この見取り図がSUUMOに載ってたらさすがに冗談だろって思いますよね。