府中市美術館で椛田ちひろ

 最近、美術展について書いてない気がするけど、行ってないわけではないし、行っても良くなかったわけでもないが、ピーター・ドイグを上まわるほどのボリューム感に出逢わないので、たとえば、どこそこの美術展で観たボナールがよかったというだけでは、書かずにすごしてしまう。(しかし、ボナールの《サーカスの白い馬》は素晴らしかった。)
 この日曜日は秋雨前線がようやく後退したのか気持ちよく晴れたので、府中市美術館に出かけた。「日本の美術を貫く 炎の筆《線》」という展覧会がやってる。訪ねたいと思っていたが、あそこは駅からだいぶ歩くので晴れた日でないと出かけにくい。ただ、晴れた日には、府中の森公園が歩くに心地いい。
 府中市美術館は、ことしで開館20周年だそうで、コロナ禍下でなければ記念展を開催する予定だったそうだ。そういうなかで急遽開かれている展覧会なので、苦しいといえばそうかもしれないが、逆にキュレーターの力量が試されるのかもしれない。
 縄文の火焔型土器から始まり、仙厓、白隠の水墨へとすすむ。中原南天棒のものが充実していた。
 火焔型土器は、現代の誰かがそう名付けた。他ならぬ今の私たちがそこに火炎を見たのである。その後に続く弥生式土器ユークリッド幾何的な慎ましやかさに比べて、実際には複雑な点対称の文様に縁取られているその土器を、火焔型と名付けたとき、私たちは自分の血の中に火炎を見ていた。
 時代が降っても、白隠や仙厓の禅画、浦上玉堂の文人画など、デッサンが確かでもなければ、パースも正しくない墨だけで描かれた絵に私たちが惹かれるのだとすれば、私たちはそこにも火炎を見ているのだろう。
 明治以後のある時期、西洋画と衝突したショックで、横山大観が「朦朧体」を作りはしたが、小林古径の世代ではもう線の美しさに戻ってきた。

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中原南天棒《たぬき》《廓然無聖》《雪達磨》

 2018年にこの美術館で回顧展のあった長谷川利行があり、今年の1月にオペラシティで回顧展があった白髪一雄があった。

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白髪一雄《作品》

 が、この展覧会でなんと言っても白眉だったのは、椛田ちひろの《死に死に死に死んで死の終わりに冥し》、《生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く》の二点だった。
 以下のサイトに制作風景がある。
artfrontgallery.com

 この人の作品《Dark energy #x》は、去年の東郷青児記念美術館の公募展FACE展で観た。あの時は今回よりずっと小さかったが、それでもインパクトがあった。

www.city.fuchu.tokyo.jp

 縄文土器、禅画、白髪一雄を経て、椛田ちひろの現在にいたる、この見せ方はなかなか素敵だと思った。キュレーションというか、リミックスのような。途中に谷岡ヤスジのマンガや、飯塚琅玕斎の花籠がインサートされるのも良いアクセントになっていた。
 10月20日からは後期展示に展示替えだそうでそれも楽しみ。

『太陽の塔』

太陽の塔

太陽の塔

  • 発売日: 2019/08/19
  • メディア: Prime Video

 「人類の進歩と調和」をテーマに掲げた1970年の大阪万博の、その全体のアンチテーゼとして、お祭り広場の屋根を突き破って屹立していた太陽の塔大阪万博全体は次第に時代に溶け込むように消えていったのに、そのアンチテーゼだけが今でも鮮明で新しいのは面白い。
 太陽の塔は、東京にもひとつあった方がいいんじゃないかと思っていたが、渋谷駅にある≪明日の神話≫、あの壁画が、いわば東京の太陽の塔といえるものだったと気が付いた。
 メキシコは壁画のメッカであった。フランスの絵画マーケットの在り方にあきたらなかった藤田嗣治が次に目指したのがメキシコの壁画だった。≪アッツ島玉砕≫のような戦争画は、藤田にとってはそうした「大衆へ」という意識、というか、芸術に社会性を取り戻そうとする試みのひとつであったろうと思う。
 藤田嗣治は大衆に裏切られたかもしれないが、岡本太郎自身は、大衆を信じてなかったろうと思う。岡本太郎がメキシコに残した≪明日の神話≫は、原爆の投下を扱っているにもかかわらず、おなじく空爆を題材にしたピカソの≪ゲルニカ≫のような断罪の調子をもたない。
 ≪ゲルニカ≫はまだどこか人間を信じている。「人類の進歩と調和」を信じているのだ。岡本太郎の≪明日への神話≫は、笑ってもいない、泣いてもいない、叫んでもいない、ほのめかしてもいない。ただそこにあり続けるのだろう。
 メキシコのどこかで失われていたのに、発見されて、渋谷駅の往来をかざっている。そして、そのままそこにあり続けるのだろうと思う。
 福島の原発事故のときにChin↑Ponが、福島第二原発の絵を≪明日への神話≫に描き足したことがあった。現代アートには、なんとなく臭みを感じることの方が多いのだけれども、あれはひさしぶりにエキサイティングだった。バンクシーの落書きなんかよりはるかにかっこよかったと思う。
 今年は石元泰博の生誕100年ということで、いくつか写真展が開かれている。先週末、新宿オペラシティ・アートギャラリーで開かれている写真展に出かけてきた。
 石元泰博の写真は、以前に鎌倉の美術館で観たことがあった。横浜美術館でもいくつか見たかもしれない。とくに、桂離宮を撮ったものが印象に残った。
 アメリカ移民の子として生まれ、第二次大戦中の強制収容も経験し、日米を往復して生きた。モホリ=ナジ・ラースローのもとで、バウハウスの薫陶を受けた石元泰博にとって、桂離宮モダニズムが感動的だったのはよくわかる。それは天皇家の洗練を示している。それは、戦争だ傷ついたルーツの修復だったと思う。
 この映画にチラリと映った岡本太郎の撮った東北の鹿踊りの写真は、それを超えていく力強さがあるように見えた。ずっと根源的なのである。国家という枠組みに囚われていない。生命に根ざした力強さがある。
 《明日の神話》は、意味としてより謎として、問いかけとして、社会性を持ち続けると思う。
 これに比べると、バンクシーの落書きはいかにもセコい。同じく落書きでも、キース・ヘリングみたいに顔を晒して描けばいいじゃないかと思う。こないだのオークションでのお遊びなど、結局、コップの中の嵐にすぎないとみえてしまう。それは大衆の側の劣化であるかもしれない。


映画『太陽の塔』予告編(120秒)

『太陽の塔』特報

www.operacity.jp

日本学術会議についてなるほどと思った記事いくつか

 このロザンの話が分かりやすかった。それにしてもコロナのせいで変な距離感。コロナを知らない写真教室の先生ならダメ出しするでしょうね。
 菅義偉ってひとは、官房長官時代に、望月衣塑子の質問に対してちゃんとした回答をしたことがない印象だった。それは、しかし、安倍首相の代弁だったから苦しい立場だったんだという言い訳もできたと思っていて、自分自身が総理大臣になったら、ちゃんと国民に説明するのかなと思っていたら、結局、こういうことだということは、この人自身の資質にそういう非民主的なものがあるということなんだろう。

news.yahoo.co.jp
www.huffingtonpost.jp

i-新聞記者ドキュメント-

i-新聞記者ドキュメント-

  • 発売日: 2020/06/19
  • メディア: Prime Video

『ミッドナイト・スワン』ネタバレあり

 『ミッドナイト・スワン』は、観ようかどうしようか迷っていた。そういうのはたいがい観ないで終わることが多いが、たまたま宮藤官九郎がラジオで絶賛していたので、今回は観るって方に天秤が傾いた。「草彅剛に限界はない」と。このふたりは『中学生円山』で一緒に仕事したんだよね。
 オリジナル脚本ではなく原作の小説があるそうだ。そのせいか色んな要素があって、観終わっても謎が残る。
 草彅剛の演じる「なぎさ」はゲイのショーパブで働いている。草彅剛って人のルックスに女性的なものは何もないじゃないですか。だからこのキャスティングはすごかった。途中で、いったん男装(?)する場面では違和感を感じたほど。その姿を見た桜田一果(新人の服部樹咲が演じている、これがすばらしい)が「何それ!」と怒りを爆発させる。でも、それは最初の待ち合わせに持っていた写真の姿だから、そこでなぜ一果が怒りを爆発させるのかは謎なのである。
 この子(一果)は、なぎさの姉の子で、児童相談所からこの子を預かることになった時、彼女には自傷癖があった。この子が境遇に負けずに、バレエの才能を開花させていくのがストーリーの縦軸になっている。そういう狂言回しの役どころのためもあり、この子自身の感情は極端に抑制的に描かれている。また育ってきた環境が抑圧的であったこともその抑制に説得力をもたらしている。それがバレエという無言の舞踏劇の表現とうまくあわさってバレエシーンはどれも美しい。
 だから、余計なことだけれども、海辺のシーンも無言であってよかったかもしれないとも思う。映画的にはそれまでの積み重ねがあるので、無言の方が伝わるものがあったかもしれない。
 というのは、とくにそれに呼応するシーンとして一果のバレエ教室のともだち「りん(上野鈴華が演じている、これもすばらしい)」の最後のダンスのシーンがある。あれが一果にとって重くないわけがないので、海辺のシーンは無言でいいと思うのだけれど。
 というより、・・・と言い始めるとやはりネタバレになるのでここから先は、映画を観ていない人は読まないでください。





 というより、りんの死が一果の側で処理されていないように感じた。そのあと一切ふれられないのはやはりおかしい。映画的にも何らかの形で回収されなければもやもやする。
 その意味では、海辺の一果の舞踏シーンは、りんの最後の舞踏とリンクしていてよかったのではないかと思う。
 なぎさが最後に死ななければならなかったか疑問に思う。なぎさは水川あさみの演じる一果の母親(なぎさの姉)と対決して敗れている。それまで隠していた自分自身を家族に晒しても、一果にバレエを続けさせようとした捨て身の行動に敗れたのだから、死に値する重さがあったと思う。
 それにあえてなぎさの死を重ねると、センチメンタルに流れる危険性があるし、そのためにりんの死が宙ぶらりんになってしまった印象もある。
 なぜなら、あの後も一果がバレエを続ける決断をしたということは、一果がりんの死を乗り越えたということなので、海辺の舞踏シーンはそれを表現していなければならないと思うのだ。一果がりんの死を乗り越えられたのはなぎさの捨て身の行動のおかげだからだ。だから、もしそこでなぎさが死ぬのであれば、その死はりんの死とかさならなければおかしいと思う。
 もうひとつにはりんと一果の関係がある。バレエ教室の同級生というと、ありきたりな設定なら、いじめとか対立とかになりそうだが、この映画では、りんと一果が疑似恋愛関係にあるのも新しかった。ふたりのキスシーンも印象的なシーンだ。まだ10代の女の子がキスをしたからといって、それをLGBTなどとカテゴライズすることもないとは思うが、しかし、戯れであったはずもないのだから、一果となぎさのシンパシーはそこにもあったと捉えることもできる。
 なぎさが一果に初めて会った日に「うちらみたいなもんは一人で生きるしかないのやけ、強くならんといかんぞ」と、言ったのも不思議な符号ではあった。
 こんな具合に、未解決の謎を含みつつも、力業でストーリーが進んでいくのは、草彅剛、水川あさみのお芝居の力と、服部樹咲、上野鈴華のバレエの美しさによるだろう。
 これは間違いなく、ジャニーズを辞めた後の草彅剛の代表作になったと思う。
 蛇足ながら、『台風家族』って映画もあったんだけど、感心しなかった。新井浩文の最後の映画になるかもしれなかったので、その意味でもちょっと残念な感じで、いわゆるスベってる感じだったのが、今回で完全復活な気がする。
 新しい地図の他の二人は、稲垣吾郎の『半世界』も良かったし、香取慎吾の『凪待ち』も評判が良かったので、これで3人が揃い踏みした感じで頼もしい。
 ちなみに、LGBTとバレエを扱った映画では、『GIRL/ガール』っていうベルギーの映画があって、あのバレエシーンも素晴らしかった。

半世界

半世界

  • 発売日: 2019/10/02
  • メディア: Prime Video
凪待ち

凪待ち

  • 発売日: 2020/02/20
  • メディア: Prime Video
Girl/ガール

Girl/ガール

  • 発売日: 2020/04/03
  • メディア: Prime Video

9月25日公開『ミッドナイトスワン』100秒予告

草彅剛×服部樹咲×水川あさみ×内田監督!映画「ミッドナイトスワン」の魅力について語ります!

高橋是清と東條英機

 この二冊の本を連続で読んだらすごく面白い。ぜひオススメ。
 明治と昭和の印象はすごく違うと思うのだけれどどうだろう。明治の明るさ、昭和の暗さ。明治の誇らしさ、昭和の恥ずかしさ。わたしにはそんなイメージ。この二冊を読むとそのワレメがつながる感じ。
 日露戦争開戦直後、ロシアの名将として名高いステパン・マカロフ中将が戦死した。乗っていた艦船が機雷に接触するという、ほぼ事故死に近い死に方だった。
 そのちょうど翌日、アメリカのユニバーシティ・クラブのパーティーで演説した金子堅太郎男爵は、演説の最後をマカロフ中将への弔辞で締めくくった。これは当時のニューヨークタイムズにも記事になり賞賛された。
 ところが、それから40年ほど降って、太平洋戦争のさなか、1943年の日華基本条約改定で、日本軍の撤去、日本の駐兵権の放棄が明記されたとき、「はじめからそうしてりゃ日支事変なんて起こらんかっただろうが?」と(言い方は違うけれど)突っ込まれて、東條英機って人は
「事実として支那に日本軍あり。(略)戦後は勝ってしまえば心配なし」
と言ったそうなのだ。勝ってしまえばどうにでもなるってことなのだ。卑しいにもほどがある。
 しかし、陸軍が固執したこの駐兵問題を、日露戦争の時点から遠望するとため息をつくしかない。というのは、高いコストをかけて日本軍を大陸に駐留させておく必要があったのかといえば、実は、満州鉄道は、アメリカの鉄道王ハリマンが日本政府と折半して出資する寸前まで話が進んでいた。一時は、桂首相とハリマンの間に協定書まで交わされていた。
 これが実現していれば、中国での陸軍の暴走もなかったかもしれない。ポーツマスで賠償金がとれなかったために、満州鉄道に外資を入れることは、大衆の不満を考えると、できなかったということもある。
 もうひとつには、イギリスの東インド会社をまねて、満洲鉄道を、日本が軍政を敷く隠れ蓑にしようという目論見があった。後藤新平の発案だったそうなのだが、その結果した事実からも明らかなように、そんな経済力も人材もまだ日本にはなかった。また、さらに重要なことは、それは、日露戦争のコストを外債で調達するにあたって日本が提唱した「門戸開放」に対する裏切りだった。
 これを諸外国がどう見ていたかといえば、駐日英大使マクドナルドが伊藤博文に宛てた私信に
日露戦争に際し諸外国が日本に同情を寄せ軍費を供給したるは、日本が門戸開放主義を代表し、この主義のために戦うを明知したるがためなり。然るに、(略)今日のままにて進まば、日本は与国の同情をうしない、将来開戦の場合において非常なる損害を蒙るに到るべし。」
とあるそうだ。
 ポーツマス条約に怒って暴れた日本の大衆は、この戦争の戦費のほとんどが外国からの借金で賄われていたと知らなかったと思う。彼らに課せられた重税なんかではとうてい賄えなかった。
 それだけでなく、そもそもその借金すらできるかどうかあやしいものだった。日本の外債といったものに当時どれほどの価値があったか想像してみればわかる。この発行のために奔走したのが高橋是清だった。二・二六事件で陸軍に惨殺されるが、彼がいなければ日露戦争に勝つどころかそもそも戦争そのものが不可能だった。
 『日露戦争、・・・』には、当時のさまざまな事件につれて、日本の外債の値動きがどう動いたかがグラフで一目瞭然にわかる。先程の金子男爵のスピーチ後には値を上げているが、鴨緑江会戦で勝った時には逆に値を下げている。だんだんとロシア領内に誘い込まれているにすぎないからだ。
 戦争の実態を西欧の投資家たちは冷静に見ていた。そして、高橋是清はそういう投資家たちに伍して、資金を調達しなければならなかった。
 金子堅太郎は開戦前から、停戦の仲介のためにアメリカに派遣されていた。かれがセオドア・ルーズベルトと同窓だったからだ。
 高橋是清や金子堅太郎を派遣した明治の元勲は、たしかに国際的な政治意識で日本の国力や国際情勢を見ていたと言えるだろう。
 ただ、日露戦争後は、満州は兵士の血で贖ったものという呪縛に囚われて、というとかっこよすぎるか、それをのひとつ憶えの題目のように振り回して、軍部が暴走することになった。
 東條英機も何度となくこのお題目を繰り返す。ちょっと虚をつかれたのは、よく考えればあたりまえだけれど、猪瀬直樹の『昭和16年夏の敗戦』に描かれた「日本必敗」の報告を、東條英機も当然ながら目にしていたわけだった。にもかかわらず初戦の勝利に浮かれていた。
 日露戦争が終わった時点で、日本の借金残高は国家予算の377%、約3.8倍になっていた。では、太平洋戦争の戦費はどうだったかというと、以下のサイトによると、国家予算の280倍だったそうである。 

gendai.ismedia.jp

 国家予算の280倍を費やし、徴兵した若者の命を散らし、東インド会社のまねごとを始めたその満州の原っぱに、どんな資源が埋まってたのか聞きたいものだ。ぜひ。

『HAFU』

ハーフ

ハーフ

  • 発売日: 2019/12/11
  • メディア: Prime Video

 Amazon primeで『HAFU』っていうドキュメンタリーを観た。日本で暮らすハーフの人たちを取材したもの。
 「ハーフ」って言葉はもともと「ハーフ・ブリード」っていう家畜用の言葉だからよくないという人もいれば、特になんとも思わない、むしろかっこいいという人もいた。一時期「ダブル」っていう言葉が代用されかけたのを憶えているが、定着してないみたい。
 そんな中で「ミックス・ルーツ」っていう、日本で暮らすハーフの人たちに交流する場を提供する運動があるそうだ。見ていてちょっと羨ましかった。
 ベネズエラと日本のハーフの人の言葉を聞いて気づかされたが、日本の場合、日本人自身の地域コミュニティが事実上なくなってしまっている。そして、個人のアイデンティティが直接に国家に結びついてしまっている。明治政府の中央集権化と高度経済成長の人口流動化の結果なんだろうけれども、国家にしかアイデンティティがない人は排外的にならざるえないのかもしれない。
 日本文化というけれど、それは、実際には、京都の、江戸の、大阪の、あるいはその他の地方都市のコミュニティが育んだ文化なので、それを日本文化といっても間違いではないが、それを育んだコミュニティを破壊して、文化だけ保存しようとしてもグロテスクなんだと思う。
 そうして母体から切り離された「日本文化」はたいてい排外主義の盾に利用されるだけみたい。たぶん生活に密着したコミュニティはもっと柔軟だし、柔軟であるべきだと思う。そうでなければ息苦しいし、息苦しいところから文化が生まれるとは思えない。
 ガーナと日本のハーフで日本で育った人と、オーストラリアと日本のハーフでオーストラリアで育った人が対照的に描かれていて面白かった。ガーナの彼は、ずっと日本がきらいだったけど、いったんガーナに行って日本に戻ってくる飛行機の中で、自分は日本人だと発見した。
 オーストラリアの彼女も、自分のルーツを確認したくてしばらく日本に暮らしてみて、結局、自分がオーストラリア人だと気づく。そして、一年の滞在を通して、自分が日本の一部だというより、日本が自分の一部になった気がすると語っていたのが印象的だった。
 国家の一部である人間なんていない。でも、うっかりそう思ってしまう。日本みたいに単一民族国家っていう神話が強固だと、よりいっそう、そういう概念に囚われがち。国家の一部である人間なんていない。個人の一部に国家があるだけ。私を例にとれば、私が私とは何かを考えたとき、日本も私の一部であると言えるだけ。当然すぎる。
 性別に置き換えてみるともっとよくわかる。私は男性だけれど、私は男性の一部じゃないじゃん。じゃなくて、男性は私の様々な属性のひとつにすぎない。
 black lives matterで、システミックな差別が問題視されているけれども、差別感情、先入観のない人間はめずらしい。そんな先入観は、あるあるネタとして笑ってもいい。
 じゃなくて、システミック・レイシズム、構造的な差別の典型は、black lives matterの運動が始まった頃ニュースになった白人女性で、彼女はリードをつけて犬を散歩させなければならないエリアで犬を放していて、それを注意された黒人男性を、警察にウソの通報をして逮捕させようとした。
 スマホに一部始終が記録されていなければ、その行動は、日本人には想像も及ばない。なぜなら、日本には、そういう差別のシステムが存在しないから。日本にもいろんな差別があるが、気に入らないからといって警察に電話をするなんて、そんな発想すら思い浮かばない。
 しかし、アメリカの白人は、警察に電話一本かければ、システミックな差別が発動すると知っている。差別のためのシステムが存在していると知っているのに、それを放置している。
 長くなったが、何が言いたいかといえば、日本の場合、これと同じことが学校で起こっている。メキシコのハーフの男の子が、小学校でいじめられて吃音になってしまう。しかも、そういういじめを教師が助長している。
 何か既視感があるなと思いかえしてみれば、シュタイナー教育小貫大輔さんの娘さん、ブラジルと日本のハーフなんだが、日本の学校でいじめられて、ブラジルに帰っていく。ほぼ、全く同じ構造。つまり、日本の学校のいじめはシステミックなのだ。

ブラジルから来た娘タイナ 十五歳の自分探し

ブラジルから来た娘タイナ 十五歳の自分探し

 アメリカのように殺されはしないが、人格形成の現場で、システミック・レイシズムを植え付けられるのは、見過ごして良い問題とも思えない。子供の世界はたしかに残酷なものだが、それに教師が加担しているのがシステミックなのだ。学力の低下なんかよりこっちの方がはるかに問題だろうと思う。
 N高とか、学校に行かないという選択肢も、今だんだん市民権を得つつある。さっき言及したシュタイナー教育なんて選択肢もある。俳優の斎藤工シュタイナー教育出身だそうですね。

sukusuku.tokyo-np.co.jp

『TENET』

 新作『TENET』について、クリストファー・ノーラン監督は
「これはスパイ映画だ」
と断言している。
「時間の逆行という概念はコンセプトにすぎない。長年、自分が大好きなジャンルであるスパイ映画に取り組んでみたいと思っていたし、そこにデビュー作からずっと取り上げてきた“時間”というテーマをミックスすると、これまでに観たことがない作品になるんじゃないか、と気づいたんだ。 」
 ジョーン・コネリーのジェームズ・ボンドが登場した60年代の新鮮さを越えていこうとしとき、ボンドカーのギミック感にちょっと機能を付け足すだけで満足しないのが、クリストファー・ノーラン監督の卓越したところなんだと思う。
 スパイ映画といえば、『007』シリーズの他に、『コードネームU.N.C.L.E』、『キングスマン』、『裏切りのサーカス』、『誰よりも狙われた男』など、これにCIAモノまで加えていくと膨大になるが、『TENET』は、その中でも『007』シリーズに近い、なんなら最も近い、荒唐無稽のスケールだと思う。
 前評判では「難解」とか言われていたけれども、というより「複雑」というのが正しい気がする。「複雑」なストーリーを視覚化する面白さに感嘆させられる。「難解」だったのはむしろ作り手の側だったろう。
 観客の誰かがこの映画をもう一度シナリオに書き起こせるか、文章で伝えられるか?。それは絶望的だと思う。これを頭の中から引っ張り出して現にヴィジュアライズしたクリストファー・ノーランの力業はすごい。
  過去と未来から挟み撃ちにする戦闘シーンは見応えがあった。たしかにそこで何が起こっているのか正確にはわからない。すごいのは、わからないのにそれが目の前で見えていることだ。
 観客はたぶんわかる必要はない。現に見えてるんだから。水道をひねれば水が出る、iPadを開くとインターネットにつながる、しかし、その仕組みをわかってる人って、どのくらいいる?。
 ただ、これを作る側は、理解を共有する必要があったろう。物理学を理解する必要はない。ただ視覚化のために逸脱できないルールは共有する必要があったはず。まず必要なルールを決定して、そのルールを共有して、ルールの範囲内で最高の結果を出す。それがすごくイギリス的だと思う。
 『イエスタディ』で主演したヒメーシュ・パテルが重要な役で出ていた。
 主演はデンゼル・ワシントンの息子のジョン・デヴィッド・ワシントンだし、舞台もインドやベトナムなのも実に自然で、そういう多様性にも目配りされているのにも好感が持てた。
 これが出演者が全員真っ白で、舞台も西欧だけだったら、たぶん古臭く感じたと思う。そして違和感を感じたはず。倫理観とかではなく、リアリズムに徹するとこうなると思う。
 日本でも、森崎ウィンとか、秋元才加とか、青山テルマとか、普通に活躍しているのに、難民受け入れに消極的なのは、ホント時代錯誤だと思う。
 個人的には、クリストファー・ノーラン監督作品では、『ダークナイト』より断然こっちが好きです。


映画『TENET テネット』ノーラン監督メッセージ&スペシャル予告編


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