霜降り明星の「オールナイトニッポンZERO」の11月14日の放送、聴きました?。
第七世代って言われてるこの人たち、同世代の人はどう感じるか分からないけれど、世代が離れているせいもあり、霜降り明星も、宮下草薙も、こないだの空気階段も、ホントに感動するな。感動しつつ爆発的に笑わせる。第七世代の前と後では確かに何かが変わったな。かが屋の加賀さんもがんばってほしいです。
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『罪の声』
『罪の声』は、星野源、小栗旬という大スターをキャストに迎え、ベストセラー小説を原作にした映画で、そういう場合、こけるケースが多いんだけど、そこは『MIU404』でも星野源と組んだ脚本家の野木亜紀子の力で、見事なエンタメに仕上がっていた。
主役級のだけでなくキャスティングが心憎い。柔道場の館長が桜木健一だったりする。他にも、庄司照枝、宮下順子、沼田爆、岡本麗、火野正平などチョイ役と言えそうなところに、重鎮を置いている。そういうの大事だと思う。
グリコ森永事件がひょんなことから解決するっていう、推理小説としての面白みを縦軸にしながら、家族の物語に着地するっていう、それは、原作の魅力なんだと思う。原作未見なので断言できないがそうだと思う。
グリコ森永事件に特徴的だったのは、足がつかないように子供の声を脅迫テープに使ったことだった。『罪の声』の「罪」の部分は、もし、その子供の親が犯人グループにいたとしたら、その親の罪悪感はどうなっているのかということなのである。刑事的な罪ではなく。
その親の世代の葛藤が、少し説明的だったと感じた。68年頃の世界的なプロテストの時代が、日本だけではないのかもしれないが、後の世代に何らかの、わずかながらでも良かったのだが、成果が残せなかったことが現代に影を落としている、その痛々しさまでは伝わったかどうか。そこまでいけば名作と呼ばれたろうと思う。
この作品にも若葉竜也が出ていたが、『生きちゃった』と同じ週に観たこともあり、エンタメ感の方を強く感じてしまっただけかもしれない。わが子に脅迫テープを録音させるっていう、その罪のおどろおどろしさは、推理小説の謎解きのおもしろさに比べて、弱かったように思った。敢えて回避したようにすら感じた。
現在、ある程度地位や名誉のある人たちでも、学生時代の過激派メンバーの逃走を手助けしていて罪に問われたりしたニュースも見たことがあった。アメリカ映画では、ロバート・レッドフォードの『ランナウェイ/逃亡者』に描かれていた。『三島由紀夫vs.東大全共闘』などにも現れているように、あの時代の皮膚感覚としての真実というべきものがあっただろうと思う。それが、現代に罪として露呈するその痛々しさまでは手が届いていたかどうか。そこはどうなんだろうと思った。
石井裕也監督の『生きちゃった』みました
10月3日公開だったってことを知って驚いている。映画を観に行こうかなってときは近場の映画館から探すので、なかなかアンテナにひっかからなかったってことは、東京のどこかで単館上映してたんだろう。それにしても、神奈川に伝わるまでさえ1ヶ月もかかるって、石井裕也監督みたいなビッグネームの作品に対してあつかいがひどすぎる。
資本が日本国内でないってことが大きいのかも。中国のHeaven picturesと香港国際映画祭が、アジアの映画監督何人かに同額の予算を提供し、「原点回帰、至上の愛」をテーマに一切の制約なしで映画を製作した。
こういう試みが中国で行われるのはなんとも皮肉で面白い。そのプロジェクトの他の作品は未見だが、石井裕也監督のこの作品に関しては、リミッターの外れた石井裕也の実力を見せつけられた。
家族をテーマにした、どちらかと言うと地味な作品だが、石井裕也監督の場合、リミッターが外れるとこうなるんだっていうのは、画面全体にこだわりが張り詰めている。絵づくりが完璧。と、素人がいうのはおこがましいのだけれども、客席の雰囲気が張り詰めている。コロナ禍のせいだけじゃないと思う。オリジナル脚本もキレがいいけれど、やはり、絵の説得力がずば抜けている。だれるところがどこにもない。
一例を挙げると、仲野太賀がお盆に帰省した実家の夜、仲野太賀と、両親の嶋田久作、伊佐山ひろ子が座ってる、一段低い台所に兄貴のパク・ジョンボクが来て冷蔵庫を開ける。風格を感じさせる。風格という言葉をこないだ『ポルトガル、夏の終わり』に使った。今年はあれを超える映画には出会わないだろうなと思ってたんだけど違った。
個人的に、改めてこの人のフィルモグラフィを見返してみると、この人を一躍スターダムに押し上げた『川の底からこんにちは』は観ていない。観たのは『あぜ道のダンディ』、『舟を編む』、『ぼくたちの家族』だな。話題になった『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』は、観ようかどうか迷って、結局みなかった。この中で一番好きなのは『あぜ道のダンディ』だな。
あの時の光石研と田口トモロヲが今回の若葉竜也と仲野太賀かもしれない。キャストの名前も全てあげたいくらいすばらしい。
「原点回帰。至上の愛」というこのシリーズに参加している日本の監督は石井裕也ただひとり。映画館にはフライヤーもポスターもないみたいな扱い。中国資本なんで人目につかないみたいなことになるにはあまりにも惜しい。
主人公が「泣けないのは俺が日本人のせいなのかな」というシーンがある。「原点回帰」ということで言えば、石井裕也監督が持ち続けているテーマのひとつはこれなんだろうと思う。
わたしたち日本人は(日本人に限らないかもしれない)、言葉の二重性に悩まされることがある。私たちの感情に言葉が直接つながっていない。日本人がシャイだと言われるのは、私たちがホンネを語っているとき、私たちはどこかでウソをついているような気がするからなのだ。
家族をモチーフにしながら、日本語の言語表現にまで深く切り込んでいる、オリジナル脚本は、小説の世界を見回しても、ここまでの達成を果たした作品はちょっと見当たらないと思う。
西村有の個展 Around October
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西村有の個展「around October」を駒込のKAYOKOYUKIで観てきた。
KAYOKOYUKIは駒込の駅から徒歩で2〜3分なんだけど、初めてだったのでちょっとは戸惑った。
横に長い窓からよく見れば絵が見えた。そうでなければ、通り過ぎたと思う。
建物の内部で駒込倉庫とつながっている。
ちょっと忍者屋敷的なおもしろさがあった。
西村有は新宿の損保ジャパン東郷青児記念美術館で観てから気になっている絵描きさん。
独特の受像感覚を持っている。上の絵も、あれを誰か他の人が描けるかといえば絶対描けない。
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たとえば、このサッカーボールの絵も西村有だから描ける。
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この右の小品。実物を観ないと分からないが、この緑色は他の人は使えないと思う。同じように絵の具そのままの緑いろであっても、セザンヌならタッチが残るし、空間を感じさせると思う。シャガールならもっと色が歌うと思う。
西村有の場合は、映像を思わせる。動画とすれば、固定カメラの背景だろう。24時間まわし続けても全く動かない定点観測のような。
10月24日から開催されている。11月29日までやっている。駒込倉庫の展示は11月14日までだそうだ。
Google mapsにアップされている写真を見ると、展示されていない絵も上がっているので、展示替えされているのか、それとも、もう売れてお持ち帰りされているのか、売れても展覧会の間は展示されると思うが。
お値段を見ると、私でも買えるくらいだった。ただわたしは絵を所有したい欲望がないので。でも、もしご自宅に絵を飾りたいという人なら、思っきしおススメ。
ちなみに、さっきの緑色の絵は小品だけど高かった。
「本展は、パリのCrèvecœurとの2会場同時期開催」だそうだ。
先日の府中市美術館の椛田ちひろといい、お笑い第七世代みたく絵画の世界でも新しい才能がどんどん育ってくるのがすごい。
損保ジャパン東郷青児記念美術館の公募展はこの状況に大きく貢献したと思う。
John&Yoko
篠山紀信が写したジョン・レノンとオノ・ヨーコの写真が手に入ったので紹介するのです。
もう少し大きい写真はこちら
「写楽」って古い雑誌なんですけど、昔はただのエロ雑誌かと思ってたんですけど、そうじゃなくて良心的な写真誌だったんですね。新撰組に加担したフランス兵の写真とか載ってたりします。違う号ですけど。
今年はビートルズ解散から50年ということで、NHKで「ディスカバー・ビートルズ」って番組がやってたんですね。
www4.nhk.or.jp
気がつかなかったので、サージェント・ペパーズからしか聴けなくて残念です。再放送してほしいです。今週は「アクロス・ザ・ユニバース」の4つのバージョンをかけ比べたりしてました。
それから、六本木で「ダブル・ファンタジー ジョン&ヨーコ展」が来年の1月11日まで開催されてます。ようやく図録が刷り上がったそうなのでそろそろ出かけたいかなと。
これを書いてて思い出した。昔、信州に住んでた頃に、軽井沢の喫茶店のおじさんに、ジョン・レノンの写真をコピーさせてもらったことがあって、昔の自分のサイトにアップしてたんですけど、あの写真はどうなったかな。探せばあると思うけど。まあ、私の写真ではないのですが。
軽井沢にはジョン・レノンの写真がけっこう残ってたりしますね。万平ホテルなんかは有名かも。
それから、今週は、坂本龍一の「radio sakamoto」でもジョン・レノンの「コールド・ターキー」をかけてました。
大阪都構想が支持されない理由について
めしを炊くときに切り干し大根をひとつまみ入れるとすごくうまいってことを発見しました。試してみてください。
それはそうと、人気の吉村知事のもとで再挑戦した大阪都構想ですけど、結局、支持を得られませんでした。この理由を私なりに(いちおう関西人でもあるので)考えてみました。
ひとつには「大阪都構想」ってネーミングセンスが抜群に悪い。
要するに、大阪府と大阪市の二重行政を解消して、今の東京23区みたいに行政を一本化しましょうってことでしょう。それを「都構想」って名付ける必要はなかったと思います。「大阪市」を「大阪都」に変える必要ないじゃないですか?。「都」が、ひとつの国にふたつあるの気持ち悪いですよね。
大阪って江戸時代前から都会なんですよ。そんな「ざらっとした」ネーミングは受け入れがたいと思うんです。「二重行政解消」ってだけで投票しておけば、橋下徹時代にあっさり賛成を得られた気がします。「都構想」って、大阪弁で言う「たいそう」なんですよ。
鶴瓶さんが言ってましたけど「大阪市」という呼称に愛着があるそうです。そういう人は多いんじゃないでしょうか。庶民の心理をかえりみない上滑りした政策決定の態度と取られても仕方ない気がします。
そもそも「大阪維新の会」ってネーミングもざらっとします。明治維新にそこまでポジティブな印象を持つ時代じゃないと思います。
明治維新の是非についてはあれこれ言う必要はありませんが、明治維新のあとに維新を唱えたのは昭和維新の青年将校たちなんであって、それは完全にネガティブなイメージしかありません。そういう挑発的なところは橋下徹の良いところかもしれませんが、有権者を挑発する必要はありません。政治家や官僚を挑発してる間は拍手喝采するでしょう。しかし、それが自分たちに向いたら「ええ?」ってなるでしょう。「こいつ誰彼かまわず刀振り回すんだ」ってなるでしょう。
その「大阪維新の会」が「都構想」となれば、完全に市民の頭の上を飛び越えて走ってる印象を持たれるのは仕方ないと思います。
しかし、それでも、賛否は拮抗していたわけなので、そんなに捨てたもんでもなかったってことでしょう。
ジャン=ポール・ベルモンド傑作選『オー!』『恐怖に襲われた街』
映画館によってはもう100%客席を埋めるようである。市松模様に前後左右が空いていたのは観客としては実に快適だったのだけれども。
新宿武蔵野館は、改装されてからスクリーンが見にくくなった。床の傾斜が緩くなったのか、前の席の頭でちょうど字幕が見えない。私は男性だから少し伸び上がればなんとかなるのだけれど、後ろの人はそうとう迷惑なのはひしひしわかる。それで脚が遠のいていたのだけれど、このジャン=ポール・ベルモンド傑作選はどうしても観たかったので。
『恐怖に襲われた街』と『オー!』を観た。
『恐怖に襲われた街』は、ジャン=ポール・ベルモンドの体を張ったアクションがみどころ。江戸木純の「生」前口上によると、まずスタントマンが型を作ってそれをベルモンドが本番でやるってやり方だったそうだ。ベルモンド自身の制作だったからできたっていう。いまでいうとトム・クルーズとかのやり方だな。
でも、個人的には『オー!』の方がオススメ。元レーサーで銀行強盗の下っ端っていう「悪ガキ」ぶりが魅力的。ヒロインのジョアンナ・シムカスも綺麗。
両方ともに言えることは、パリの街、クルマ、広告、地下鉄が魅力的。サヴィニャックのポスターとか。シトロエンのクルマ。
それでも1968年の『オー!』の方が1975年の『恐怖に襲われた街』よりオシャレに見える。印象を正確に書くと、よりオシャレに、というより、よりフランスっぽく見える。ハマキ型のレーシングカーですらフランスっぽく見える。1975年の『恐怖に襲われた街』だと、バイクはカワサキだし。男の穿いているパンツもフレアっぽい。男がフレア(裾が広がってる)パンツを穿く時代はさすがにもう来ないかもな。
『オー!』にはアラン・ドロンがチラッと出てたらしい。空港の出口でクルマに轢かれかけだ男がいたのは気づいたけど、一瞬すぎてわからなかった。
その当時、日本ではアラン・ドロンは美男子の代名詞になるほど圧倒的に人気だったけど、今になってジャン=ポール・ベルモンドの粋な感じがわかるな。
belmondoisback.com