『マ・レイニーのブラックボトム』『グンダーマン』『デニス・ホー』

 なぜかミュージシャンの映画を立て続けに3本観た。
 『マ・レイニーのブラックボトム』は、これでチャドウィック・ボーズマンアカデミー賞をとると言われていたが、結果的には『ファーザー』のアンソニー・ホプキンスになった。
 予備知識なしでも元ネタが舞台劇だとわかる。実は、『ファーザー』の方ももともと舞台劇なんだが、あちらは映画的な文体にリライトされていた。
 しかし、ジョージ・フロイト事件の後ではこれはよくないのではないか。黒人でも白人でもない立場としては言いにくいが、まるで、黒人自身で演じられた「ミンストレル」のように感ぜられた。黒人ミュージシャンの描かれ方がステレオタイプすぎないか?。『デトロイト』にあったような、今のBLMにつながるうねりは感じなかった。
 『グンダーマン』と『デニス・ホー』は対照的な映画だった。
 『グンダーマン』はベルリン郊外の褐炭鉱で鉱夫として働きながら音楽活動を続けている。ボブ・ディランとも共演したことがある、ドイツではすごく人気があるのだと思う。ボブ・ディランのイメージが60年代で止まってる感じがしてしまうのは、そういうグンダーマンの状況に引っ張られてしまうからだろう。そういうグンダーマンが東独時代に、秘密警察シュタージに協力していたことが発覚する。労働者としての歌を歌いながら、一方で政府に仲間を売っていたことになる。
 ギュンター・グラスナチスの親衛隊に入っていた過去が明らかになったってこともあったが、シュタージとナチスでは話が違いそうだ。サマセット・モームが第二次大戦中にイギリスの諜報部で働いていたと分かっても人はへーっと思うだけだろう。一方で、誰かアメリカの作家がCIAのために働いていたとなったらまた話が違ってくる。
 グンダーマン自身は自分自身についての報告書を読んで「自分に失望した」と語る。実は彼自身もシュタージに監視されていたわけだった。
 『希望の灯り』のときもそうだったけれども、東独の陰影が映画に独特の味わいを与えている気がする。ナチスの支配が終わったと思ったら、共産党の支配が始まった。東独の人たちが冷戦時代の社会主義をどう考えていたか、今では少しわかりにくい気がする。社会正義があまりに揺らぎすぎている。グンダーマンのように労働者にこだわっている人だと、今では恥じているとしても、当時はその悪に無自覚だったことも理解できる気がする。
 
 『グンダーマン』が過去の話であり、役者が演じているのに対し、『デニス・ホー』は、ドキュメンタリーで、しかも、現在進行形で、どっちに転ぶかわからない香港の問題だ。
 中国は香港返還時にイギリスと交わした、返還後50年間は一国二制度を維持するという約束を踏みにじって、なぜ香港に手を出そうとするのか、約束通りだと2047年までそのまま一国二制度を維持することになるが、それで中国に何の不都合があるのか分からない。
 香港のデモを見ていると、香港の人たちの本気さが伝わってくる。その香港の民主主義の顔となっているのが、香港のみならず、中国でもトップスターの歌姫デニス・ホー。
 映画は、実は、デニス・ホーの半生を伝記的になぞっているだけなんだが、そうするとそれが自然に香港の雨傘デモと重なってくるのは、それが香港市民の民度なんだと思う。
 トランプ支持者がワシントンを襲撃した時、中国政府や何か揶揄するようなことを言った。しかし、民主主義が機能していれば、間違いが修正されやすいと考えるべきではないかと思う。アメリカ民主党の代表選でバーニー・サンダースが敗れたには失望したが、ジョー・バイデンボトムアップ政策に大きくアメリカの舵を切ったには驚いた。
 米国議会の襲撃事件を見た時は、もうアメリカは終わったんじゃないかと(これが初めてではないものの)思ったものだったが、政権交代で大きく変わりうるってことが未来への希望だと思った。トライ・アンド・エラーを繰り返して進んでいくしかない。
 結局、変わらないさとシニカルなものいいをする人もいるだろうが、郵政民営化ごときの小さな変化もまともに実現できない日本と比べればうらやましいというしかない。繰り返しいうように、政権交代占拠で308議席を獲得したのに、1週間でマニフェストを撤回した民主党政権が、日本の民主主義を殺した。沖縄よりアメリカを選んだことで彼らは国家元首の資格を失った。沖縄を売ることは国を売ることだった。自民党も同じだが、だからこそ政権交代を実現したのに、それを裏切った民主党の罪は重すぎる。一度国を売った政治家が信頼を取り戻すのは容易ではないだろう。
 直近のG7で中国に対する非難決議がなされたが、天安門チベット、ウィグル、香港と続くと、中国の経済力がいかに大きくても、さすがに国際社会の看過できる状況じゃないと思う。外交は他に複雑な要素が絡み合うのでどうなるか予断を許さないが、香港の民主主義が失われる事態に対して、いちばん危機感を感じるべき、また、声を上げるべきなのは日本だと思うが、日本の政治家が一人として言葉の持ち合わせがないのにはまったく意気沮喪する。
 
gundermann.jp

deniseho-movie2021.com

『マーダーボットダイアリー』

 第七回日本翻訳大賞を受賞した『マーダーボットダイアリー』を読んだ。
 この主人公がどうやら女性(というのはそもそも性別がないとされているからおかしいんだけれども)らしいと、ほとんど終盤になってぼんやりわかるのが面白い。
 これだけ面白いのだから、コンテンツを漁りまくっているアメリカの映画界がほっとかないと思うが、そうすると登場から草薙素子ばりのセクシーでマニッシュな感じになるんだろう。それはそれでヒリヒリしてよいのではないかとおもう。
 言われてみると、登場人物に女性がすごく多い。あと、ミキっていうロボットの登場シーンがすごくうまい。ルックスの描写がほとんどないのが心にくい。「この手の映画によく描かれるような・・・」みたいな描き方なんだが、幅がありますからね。『エクスマキナ』から『チャッピー』まで。
 そういう造型的なところを全部読者の想像に任せて平気で話が進んでいくところが実に小説的でいい。
 今、上下巻が出てるんだが、実はまだ続きがあるそうで、現在鋭意翻訳中だそうだ。
 大賞を受賞した中原尚哉さんと賞の創設者の柴田元幸さんの対談が聞けた。

www.tbsradio.jp

 柴田元幸さんはこの翻訳について、特に「弊機」という一人称についていたく感動してたみたい。
 主人公は警備に特化された機種なんだけれども、かつてコマンドの暴走で大量殺人を犯してしまったらしい。その記憶は消去されて別の現場に配属されているのだが、彼女(という代名詞もあとがきにしか使われてない)は、クローンと機械の合成なので、クローンの部分に記憶が残留している。それがトラウマで、基幹システムをハッキングして、システムのコマンドに隷属しないようにしている。かといって普段は、システムの指示通りを装っているし、こっそりダウンロードしたテレビシリーズに耽溺するぐらいのことしかしていない。
 このメタファーが刺さるんだと思う。たまたま乗り合わせた船のAIがけっこう知性的だったりするのも、実は未来というより今なんじゃないかと思う。
 ちなみに、ダブル受賞した『失われたいくつかの物の目録」の翻訳は、これはまたがらっと変わって、なんかこう特別なアプリで、各国の翻訳者が原作者もまじえて情報を共有しながら翻訳を進めたそうなのだ。いかにもドイツらしくて面白いと思った。

『ウディ・アレン追放』

 今週の週刊文春に「小林信彦プレゼンツ これが日本の喜劇人だ!」について小林信彦が書いていた。上映期間が終わるまで控えていたのだろう。
 「「大冒険」(六五年)てのは、外国で「リオの男」を見てきた東宝の上の方の人の意見にのったものです。」
だそうだ。ほんとにジャン=ポール・ベルモンドが元ネタだったみたい。
 

 結局、『ウディ・アレン追放』を読んでみた。
 著者がせっかく公平な書き方に努めているので結論めいたことは書かないことにしたい。が、正義をかざしてくる人間が正義とは限らない、これもひとつの実例かと興味深かった。
 ツイッターの140文字さえ読まず、ネットニュースのヘッドラインだけで情報を処理してしまう時代に真実を伝えるのは難しい。「#Metoo」運動が、こんなヒステリックな個人攻撃に枝分かれしておわりという状況に、フェミニズムの側から何か反応があってもよさそうなものだと思うが。フェミニズムって学問というより運動なので風向きしだいなんだろう。
 Amazonの態度にもあきれた。ウディ・アレンはここでも法的に事実上勝っているわけだけれども、これでも個人は抹殺できるって時代だからこそトランプが大統領になれたわけなんだろう。
 炎上すれば便乗する、それがSNS時代の言論なのかと思うとあほらしくなる。



 

『アンモナイトの目覚め』観ました(ネタバレあり)

f:id:knockeye:20210609030800j:plain
アンモナイトの目覚め

 ケイト・ウィンスレットの演じるメアリー・アニングという女性は実在した19世紀の古生物学者だそうだが、この映画のメアリー・アニングのキャラクターはまったくの創作で、ケイト・ウィンスレットの抑制された演技が、陰影の深い性格劇の主人公を生み出している。
 その人となりがほとんどわからないとしても、19世紀初頭の英国女性を描く場合、この映画とはまったく違う風に描くことも可能だったろうと思う。
 1799年という18世紀最後の年に生まれたこの女性が少なくとも英国の博物学にその名をとどめている、しかもたった12歳の女子の発見も公平に扱ったという事実は、18世紀の英国の空気を示しているのかもしれないし、その後、彼女が忘れ去られたという事実はまた、19世紀の英国の空気を示しているかもしれない。
 なので、19世紀なかば、47歳で亡くなったこの女性の後半生のある時期を描いたとすれば、この雰囲気は案外、事実と遠からぬものなのかもしれないが、ひとまず、この映画のメアリー・アニングが生きている世界は寓話の中である。
 最近、この時代の女性を映画が描こうとすると、みんな同性愛になってしまうかの感がある。たとえば『女王陛下のお気に入り』、『燃ゆる女の肖像』。まるで、当時の男女関係には現代の感覚でいう恋愛など存在しえなかったとでも言いたげ。
 この理由もよくわかる。男女関係は社会そのものだから、男女の恋愛を描こうとすると、当時の社会を描くことになってしまう。19世紀の社会に観客も作り手も興味があるわけではないなら、普遍的な人間関係を描こうとすると、非社会的な関係を選ばざるえない。
 ちなみにほぼ同時代人のウィリアム・ワーズワースバイロン卿は、ともに姉妹との道ならぬ恋愛に悩んでいた。「近親相姦」がこの時代に多かった理由は、貴族の場合、家庭教育が普通で、子どもたちが兄弟姉妹としか接触していなかったためではないかと思っている。
 この映画のメアリー・アニングの背景としてもうひとつ重要なのは階級社会。イギリスでは階級で話す言葉さえ違う。上流階級は「recieved pronounce」と言われる発音で話す。音楽会のシーンは、それを知っている方が理解しやすいと思う。たぶん、メアリーが音楽会に招待されたのもあの医者が外国人だったからだと思う。
 しかし、あのシーンはメアリーの性格でなければまた違う反応になっただろう。かつてのパートナーに「稲妻」に喩えられる、激しい性格をケイト・ウィンスレットが巧みに演じている。
 ラストシーンは、まるで一枚の絵のような見事な終わり方だった。オープンエンドと言っていいのだろう。ケイト・ウィンスレットの前に、シャーロット(シアーシャ・ローナン)がスフィンクスのように立っている。2人の間には、メアリー・アニングが発掘したのに、彼女の名前さえ明記されていないイクチオサウルスの化石がある。
 メアリーには二つの選択肢がある。ひとつは海辺の村に戻り発掘生活を続ける。もうひとつは、シャーロットの申し出を受け入れ、ロンドンの屋敷で一緒に暮らす。
 しかし、この選択にそんなに切実な岐路が存在しているだろうか?。申し出を断るにしても、シャーロットとの関係を壊さずに帰ることもできたはずだし、受けたとしても、大半の時を発掘に費やすこともできたはずだった。  
 では、なぜメアリーはあんなに怒ったのかといえば、彼女の今までの生活を否定されたと感じだからだった。化石発掘にかける、当時の感覚としては「奇妙な」情熱を、理解してくれたと感じていた人に裏切られたと感じたからだ。
 そのメアリーの気持ちをシャーロットが理解したかどうかを、観客はあのラストシーンで読み取らなければならないが、それは観客に委ねられているように思う。
 ケイト・ウィンスレットは『女と男の観覧車』が、ウディ・アレンをめぐる#metoo騒動に巻き込まれて不振に終わったのが残念だった。ケイト・ウィンスレットの演技はあの時も素晴らしかったし、映画自体もいつも通りよかった。
 ウディ・アレンは『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』を最後に映画界を追放されたようになっているが、何年も前に法廷で白の結論が出てる事件を、これといった根拠もなく蒸し返して追放まで行くのは行き過ぎのように思う。ヒステリックにさえ思える。これに関しては『ウディ・アレン追放』という本が出ているので、読んでみるかどうか迷っている。


www.youtube.com


 

『大冒険』『人も歩けば』『三等重役』『名探偵アジャパー氏』

 あのあと読んだ記事によると石井裕也監督は『茜色に焼かれる』をたった1ヶ月ちょっとで撮り切ったそうだ。スティーブン・スピルバーグ史上最速と言われている『ペンタゴン・ペーパーズ』でも半年かかってる。しかも、あれは脚本が先にあったのに対して、石井裕也監督は脚本からオリジナルだから、そのスピード感にクラクラする。
www.nippon.com

 で、話はまたシネマヴェーラの「小林信彦プレゼンツ これがニッポンの喜劇人だ!」なんだけれども、あれから『大冒険』、『人も歩けば』、『名探偵アジャパー氏』、『三等重役』を観た。

f:id:knockeye:20210603060413j:plain
『大冒険』

 『大冒険』は、クレージーキャッツ結成10周年記念映画。クレジットされていないものの、小林信彦がシナリオのアレンジとギャグのアイデアで参加したそうだ。円谷プロが特撮を担当した大活劇で、この映画の植木等は、いま新宿武蔵野館で特集上映されているジャン=ポール・ベルモンドを思いださせる。スタントを使わず、映画史上初のワイヤーアクションだったという説もあるとか。
 ニセ札をめぐって、警察、謎のテロ組織、新聞記者と発明家の植木等谷啓コンビが三つ巴の追跡劇をくりひろげる。東京を起点に神戸へ、そして、最後には日本を飛び出す。途中では、蒸気機関車を農耕馬に乗った植木等が追いかけるっていう、西部劇リスペクトがはいったり、ビルから落っこちそうになるシーンはたぶん、ハロルド・ロイドへのオマージュなのかも。最後にネオナチにつかまって処刑されそうになるときの軽妙な会話なんて、ジャン=ポール・ベルモンドルパン三世のモデルと言われているけど、植木等のC調な感じも負けてないなと。根っからのスター性がないと出せない感じだと思った。「あ、ヒトラーだ。僕らの少年時代のヒーローだ!」とか、ほかの人が言えば笑えないと思う。谷啓の天然ぶりもすごくよかった。ルックスは爆笑問題の田中さんじゃんとか。

f:id:knockeye:20210605105013j:plain
『三等重役』『人も歩けば』

『人も歩けば』は、『とんかつ一代』を観てますますファンになった川島雄三監督作品。語り口がガラリと変わって、アバンタイトルというそうだけど、プロローグのナレーションがすごく長い。そこで映画のトーンが作られている。しかも、あとから思い起こすと、というか、映画の後半にもう一度そこにもどるのだけれども、ちゃんとそこに種明かしというか、推理小説でいう「フェア」な描き方がされていたということに気が付く。見巧者が見れば、最初からオチに気が付いたのかも。
 ただ、そういう長いアバンタイトルがあるってこと自体、最後に落としますよっていう予告でもあるわけで、『幕末太陽傳』で、最後にセットを抜け出し、撮影所を抜け出し、現代の品川へと、主人公を走りださせようとしたっていう発想とは真逆の方向性で、その多彩さというか実験精神というか、そういう部分を楽しめた。
 それから、現時点の視点でいうと、ロケが多い分、当時の風俗に興味をひかれざるえない。ベッドハウスが何なのかがよくわからない。カプセルホテルみたいなものなのかしらん。その主人の加東大介が、なぜかロシア風のいでたちでサモワールなんかを洗ってるのが妙にリアルに感じられた。ロシア風のいでたちをしているかぎり文学青年くずれにちがいないから。
 銭湯の三助というのが名称こそ聞いたことがあるものの、どういうことなのかよくわからない。だって、行方をくらましているフランキー堺をさがして、女湯をのぞいてしまった学生に対して「キャーッ」とか騒いでる女湯の客たちが、三助をしているフランキー堺が女湯にはいってきても平気な顔をしているのがよくわからない。どういうシステム?。
 桂小金治のスクーターも興味深かった。おしゃれだわ。メーカーがわからなかったが、ラビットかな。
 淡路恵子のスタイルの良さには相変わらず目を惹かれた。『駅前旅館』みたいなシャワーシーンはないものの、着物姿がまさに「シュッ」としている。しかも強い感じ。ああいう強さを感じさせる女優が今思いつかないのはなんか変な感じ。あえてあげれば篠原ゆき子、萩原みのり、平手友梨奈とかだろうか。でも、玄人感がないんだよな。
 『三等重役』は、源氏鶏太の小説が原作で、脚本の山本嘉次郎黒澤明の師匠。だからどうしたったことはないが、「笑わせるぞー」と手ぐすね引いている感じはない。なりゆきで社長になったサラリーマン経営者が普通になっていく、一億総中流時代の幕開けを感じさせる、今となっては涙なくしては見られない映画かもしれない。
 パージされていた前社長が、追放処分を解かれて復帰するというニュースから映画が始まる。しかし、その社長は復帰寸前に病に倒れる。追放処分ということは、かれは戦争協力者だったわけで、その設定のうまさは、自分自身の手で戦争を総括できなかったままで、なんとなく戦争の影がうすらいでいく世相が反映されている。
 それから、バブル崩壊まで、ほぼ二十世紀いっぱいを日本社会は企業社会を屋台骨にしてきた。そこには、何となく戦争を忌避し、何となく民主的な、そして何となく平等な社会ができあがっていた。その感じがよく伝わる。その社会をもし理想とするにせよ、変革しようとするにせよ、その社会についてよく知るべきなんだろう。その意味では、この映画はその社会の全体像についてのよき教材でありうる。
 森繁久彌はこの映画でスターダムにのし上がるきっかけをつかんだそうだ。『夫婦善哉』なんかがそうなのかなと思っていたけど、あれは、コメディアンから映画俳優へと脱皮した作品で、喜劇映画俳優としての評価はこの作品で獲得したのだそうだ。続く「社長シリーズ」のエピソード1。

f:id:knockeye:20210605141254j:plain
『名探偵アジャパー氏』

 『名探偵アジャパー氏』はもともと『死刑囚とへぼ探偵』というタイトルだったみたい。そのふたつのポスターがロビーに展示されていた。伴淳三郎の「アジャパー」がそうとうな流行語だったのだろうと推測される。でも、映画はそういうことにひっぱられることなく、伴淳三郎一人二役のとりちがい喜劇としてうまく物語をひっぱっていく。
 マルクス兄弟の『吾輩はカモである』で有名な鏡のシーンのパクリシーンがあった。在りし日の志村けん沢田研二なんかとよくやっていた。

www.youtube.com

これはでも、一人二役でやっちゃだめじゃん。ちがうふたりがやるから意味があるので。でも。リテラシーの豊富さはうかがい知れる。

『茜色に焼かれる』観ました

f:id:knockeye:20210602023620j:plain
茜色に焼かれる

 この2週間の週末は、小林信彦が選んだマニアックな喜劇映画を観るために、シネマヴェーラ渋谷に通っている。 
 個人的には1日3本が映画を観る限界だと思ってる。できれば2本にとどめたい。で、1日のプログラムから2本を選ぶと、1本目と2本目の間にかなり時間があくってことがある。渋谷なのに美術館も大きな映画館も軒並み閉まっている。そのせいってわけでもないかもだが、下の階でやってる『茜色に焼かれる』に長蛇の列が出来てる気配だった。
 あの列はもしかしたらユーロライブの列だったかもしれない。もしくは、ユーロスペースにかかっている他の映画の列だったかもしれない。が、そうじゃなくてもそうだとしても、『茜色に焼かれる』の評判の良さは聞こえていた。
 石井裕也監督の『生きちゃった』は去年の映画のなかでもbestにあげたい映画だった。仲野太賀と若葉竜也がよかった。この映画も尾野真知子の最近のbest actになるんじゃないかと思う。


www.youtube.com


www.youtube.com

diamond.jp

『喜劇とんかつ一代』小林信彦 これがニッポンの喜劇人だ

f:id:knockeye:20210522221708j:plain
喜劇 とんかつ一代

 
 シネマヴェーラ渋谷で始まってる「小林信彦 これがニッポンの喜劇人だ」の中から『喜劇 とんかつ一代』と『東海道弥次喜多珍道中』、『雲の上団五郎一座』を見た。
 なかでも『喜劇 とんかつ一代』は『幕末太陽傳』の川島雄三監督作品で、やはり作品の作り込みがいちばん贅沢。『幕末太陽傳』の品川遊廓と同じくセットの建て込みが素晴らしい。当時の大道具さんは事実上、数寄屋大工なんだと思う。
 役者を追いかけながら、とんかつ屋の暖簾をくぐり、調理場に入ったり、2階に上がったり、2階から下を覗いたりの縦横無尽のカメラワークが素晴らしい。当時、GoProも iPhoneもないわけだから、すべてでかいカメラをクレーンに載せているか、レールを敷いて撮っていると思われる。森繁久彌淡島千景が追い回すシーンがすばらしい。それを可能にしているのがあのセットなはずで、カメラと緻密な共同作業をしていると思う。ただ、こう書きながら、実際にどうやって撮ったかきちんとはわからない。
 主演男優と女優は駅前シリーズと同じく、森繁久彌淡島千景、そして、フランキー堺。漏れ聞いたところでは小林信彦淡島千景のファンだっと思う。「駅前」シリーズもそうだけど、特にあざといシーンがあるわけでもないのにそこはかとなく艶っぽい。
 淡島千景の甥にフランキー堺、「未来食クロレラ」を研究している貧乏学者に三木のり平加東大介のフレンチレストラン(モデルは上野の精養軒らしく常に動物園の鳴き声が聞こえているのが笑える)、森繁久彌とんかつ屋、そして三木のり平クロレラ、という食をめぐるコントラストが効いている。三木のり平池内淳子夫妻を訪ねる客がクロレラをご馳走させられるシーンがリズムになってて、やっぱり川島雄三ってすごくコメディーが分かってた人なんだと思った。小林信彦の小説「唐獅子株式会社」で一行が創作料理を振る舞われるシーンを思い出した。
 川島雄三が45歳で急逝したのがすごく残念。ましてや、フランキー堺にとっては大打撃だったようで、川島雄三と温めていた写楽についての映画を彼の死後30年以上あとに実現している。
 『幕末太陽傳』は、にっかつ創立100周年記念にデジタル修復版が上映された押しも押されもせぬ名作なんだけれども、フランキー堺の回顧するところでは、封切り当時は、当時あった「フランキーもの」のひとつといった程度の認識であったらしい。そういう名作意識みたいなものの影すらないのがまた名作の名作たる所以だろう。全てがすばらしい。
 あそこまでの名作ではないにしても、この『とんかつ一代』も、今回観た他の2作に比べて、骨格も肉付きも断然大がらだと思えた。フイルムの保存状態も比較的よく特に気になる傷はなかった。
 これに比べて『東海道弥次喜多珍道中』のフイルムは、鑑賞してるうちに慣れてくるとはいえ、いくらなんでも状態が悪すぎる。
 監督は近江俊郎で、わたしには晩年テレビに出てた頃のイメージしかないけれど、これは、人柄が表れているというべきおおらかな出来上がり。この頃の明治維新のイメージが大衆に共有されていたのがよくわかった。『るろうに剣心』なんかもこの延長線上にあると言えるかも。特に笑えるところはなかったけど、嫌味のないドタバタ劇に仕上がっている。むしろそれは当たり前で、川島雄三がやっぱりすごいんだと納得した。
 由利徹南利明三木のり平の個人技を観るには『雲の上団五郎一座』の方がよい。フランキー堺の弁慶勧進帳もさすがだ。
 女性トラブルでどさ回りに出た劇団が、自称演出家の調子のいい口車に乗せられ、大真面目なお芝居をやってるつもりがいつのまにかコメディー劇団として成功していく。三谷幸喜好みのシチュエーションコメディーで、味付けを変えれば今のコメディアンを使って再利用できそう。この映画のあとテレビシリーズ化されたそうだ。
 1962年封切りだそうでエノケンは病魔がだいぶ進んでいるはずだが、「まさかこれ義足なの?」と、一瞬冷やっとした。
 八波むと志は1964年に交通事故で亡くなるので、由利徹南利明脱線トリオが勢揃した映画としても貴重なのかも。

f:id:knockeye:20210531011250j:plain
雲の上団五郎一座