「クリトリス」がフェミニズムの用語であることをたぶん日本人はなかなか理解しにくい。映画がクリトリスについて語っている場合、フェミニズムについて語っていると考えてよい(『あなたを抱きしめる日まで』のジュディ・デンチでも)。
クリトリスの切除は、ヒステリーの治療法として、実際、つい最近まで(20世紀に入る直前くらいまでは)、ヨーロッパでも普通に行われていた。男性の割礼さえ一般的でない日本ではその感覚は理解し難い。
そんな文化圏から来日していた彼らが、日本の春画を見て「堕落してる」とか「不道徳」とか言ってたと思えばあまりにもグロテスク。明治の日本人がそれをそのまま大真面目で受け入れたキリスト教文化が、日本に根付かなかったのはむしろ健全だと思われる。
『哀れなるものたち』のエマ・ストーンをめぐる男性たちのうちクリストファー・アボットの態度が最も西洋的伝統的態度であり、つまりはキリスト教徒的態度と言えるものだろう。
一方で「レディ・ファスト」を旨としながら一方でクリトリスを切除する分裂した態度の裏側には、性欲にまつわる根強い罪悪感(いうまでもなくキリスト教に由来する)があると、彼のセリフからわかる。
キリスト教徒の男性は、勃起するペニスを罪の象徴として感じており、ペニスのない女性を自分たちより神に近い存在として崇めつつ、クリトリスという快楽の器官をペニスのカリカチュアとして憎んだのだろう。
この映画は、予告編からもわかるように、フランケンシュタインを本歌取りしている。そのフランケンシュタイン博士に当たるウィレム・デフォーの名前がゴドウィン・バクスターで、ベラ・バクスター(エマ・ストーン)は彼を「ゴッド」と呼んでいる。「OH,my god」というのさえ憚って「OH,my goodness」という文化圏で、誰であれ「GOD」と呼ぶなんてことは、いうまでもなく、キリスト教世界を茶化しているわけ。
キリスト教のGODの力が及ばない「ゴッド」の世界で、全くの野生児として育ったベラは、もちろん、健全な性の快楽を否定しないしそれを恥もしない。同時に、性を資にして生きる売春も否定しない。まさにゴダールの言ったとおり「すべての仕事は売春」なのである。
かくしてこの映画はかくもラディカルなフェミニズム映画なのだった。フェミニズムを語るならここまで徹底して語ってほしい。
もはや古い話になるが、岡村隆史がオールナイトニッポンで炎上した時も、二つの真逆の意見が上がっていたのを憶えている。岡村隆史があっさり謝ってしまったので論争につながらなかったが、ああいう古めかしい道徳論、ほとんど良妻賢母をよしとする封建道徳のようなことが日本ではフェミニズムと呼ばれているきらいがある。
#metoo運動の時も、行き過ぎたピューリタニズムだという批判が女性の側からも上がっていたってことを憶えておくべきだろう。
ちなみに、ダンカン・ウェダバーンを演じたマーク・ラファロが超おもしろい。この人はホントに『ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男』、『フォックスキャッチャー』、『スポットライト 世紀のスクープ』と、骨太ながらも面白いお芝居をする役者さんである。
knockeye.hatenablog.com
『ヤジと民主主義 劇場拡大版』
マスメディアを信用しなくなってしまっているので、たまにこういうのにぶつかると愕然とする。
今、素人がスマホで動画を撮れるって時代になってホントによかったと思う。文字メディアで聞いただけなら到底信じられなかった。
選挙演説に来てる、その候補者に、誰かがヤジを飛ばす。そんなの当たり前の光景だったはず。それに、そもそも安倍晋三自身が国会でヤジを飛ばしまくってたじゃないか。
ましてや街頭なんだから、ヤジくらい覚悟して当然でしょ。
ところがまあ、1人の男性が一言二言ヤジを飛ばした瞬間、5〜6人の私服警官が群がってきたぞ。
それを見た1人の女性が、その抗議の意味もあったそうなんだけど、またヤジを発したら、こっちの方がさらにびっくりしたんだけど、こちらもまた多勢で排除したあと、2人の婦人警官が、何と1時間以上、2kmにわたって両脇からぴったりくっついて、ずっと連れ回した。「強制連行」って言葉はこんな時に使って欲しい。
猫なで声なのがさらに気持ち悪い。たぶんYouTubeにあるんでしょうが、見たくもない。映画館で見てよかった。そうでなければ正視にたえない。この映画全編を通じていちばん気持ち悪かった。気がついたら椅子の背もたれにのけぞって、顔を背けながら見ていた。
このあと、何年かあとに安倍晋三が殺されるじゃないですか。ヤジ飛ばすだけのやつにあんな迅速に飛びかかるのに、殺傷武器持ってたやつには至近距離まで気が付かなかったって。笑っちゃいますよね。
自分自身のウソに慣れきってしまってるんだと思います。本心では危険でも何でもないと知ってるヤツに、危険ってレッテル貼ることに頭が慣れてしまって、ホントに危険なヤツに反応できない。
最初は自覚的にウソをついてたはずなのに、いつのまにかそのウソが彼らにとってのホントになってしまって、そういう生き物になってしまってる。警察官ってそういう生き物。伊藤詩織さんの事件で、婦人警官が声を揃えて訴えを取り下げさせようとしていたことを思い出しました。権力がついたウソは、まず権力の内側でホントになっちゃうんですね。
私たちは権力のウソを押し付けられてるだけだけど、権力の内部にいる人たちは、頭の中までそのウソに染められてる。警察官として生きるって選択は、頭の中まで権力に委ねてしまうって選択なんだなってことが、ヴィジュアルでわかるって、すごい時代です。
一種の嗅覚だと思うんですよね、ああいう警備って。だから、感覚を研ぎ澄ましておくことが必要なんじゃないでしょうか。ところが、ウソで汚染されてる頭はその真逆だから、現実の危険には反応できない。一般市民をテロリストに仕立てることはできても、現実のテロリストには何もできない。元首相暗殺みたいなことがいとも簡単に行われてしまう国は、裏を返せば、普通の人をいとも簡単に排除する警察とセットだったんだということが、目で見てわかる。
ヤジに関しては排除の是非について裁判で争われてるのですが、それより地味に問題だなと思ったのは、増税云々についてのプラカードを持って立ってるだけの女性に私服警官が張り付いて、プラカードが安倍晋三にみえないように妨害していたこと。安倍晋三支持者の方のプラカードは、大量に印刷して配ったヤツを平気で掲げてるので、あれは確実に警察による検閲ですね。映像としては地味だけど、あっちの行動の方が、警察としてはあるまじき行動なんだと思います。
あれをやってた警察が、ヤジの人を排除してるわけなんで、警察の当時の行動の動機を語るのに十分な傍証になるはずです。
この映画を観るかどうか迷ってたのですけど、たまたま見やすい時間にやっててくれて見られてよかったです。映画館の方に感謝です。
『レザボア・ドッグス』
『サン・セバスチャンへようこそ』
『レイニー・デイ・イン・ニューヨーク』がクランクアップしたのは2017年だった。日本では2020年に公開されたが、本国アメリカではいまだに公開されていない。
それは、ローナン・ファローの言いがかり、それも、#metooに絡めた言いがかりだったので、さもウディ・アレンがabuseを働いていたかのような空気になって、『レイニー・デイ・イン・ニューヨーク』で主役を務めたティモシー・シャラメなどは、この映画のギャラを全額寄付したりした。彼は『DUNE』でアカデミー賞を獲れそでそうせざる得なかったそうだ。
そのころから言いがかりだという意見も多かった。というのは当該の件は、とっくに裁判で結審している。裁判が絶対でないのはいうまでもないが、新事実が発見されたならともかく、そうではなく、ローナン・ファローが古い裁判を蒸し返したに過ぎなかった。
それだけのことで、ウディ・アレンのような著名な映画監督が6、7年も映画を撮れなくなってしまう。この事態は、#metooのムーヴメントの信頼を大いに損ねた。
ハーヴェイ・ワインスタインの大事件の濁流がうずまいているときに、じゃあついでにこれもと、古い裁判の被告を原告の息子がその濁流に突き落とした。
#metoo運動は超法規的な運動なのか?。法を超えて人を断罪できる権利をいつ獲得したのか?。この時点で#metoo運動は、事実を無視してムードで人を断罪する人民裁判に変容してしまった。
ともかく、ウディ・アレンの映画に再会できてよかった。
今回の作品ももし#metooがなければ、俳優としてのウディ・アレンも見られたのではないかと残念に思った。俳優としても是非復帰してもらいたい。『ローマでアモーレ』以来かな。
次回作『coup de chance』も楽しみ。
『ゴーストワールド』
1月17日も、うっかり忘れて通りすぎることもあったくらいだが、今年はやはり意識した。
しかし、私だけでなく、あれが100年に一度のまがごとなんだろうと、良くも悪くもそう思ったはずだった。
少なくともあれから、こんなに長く、断続的に大災害に悩まされ続けるとは誰も予想していなかった。
能登半島で4mも隆起した岸壁なんて写真を見せられると、私たちがいかに間違っていたか思い知らされる。
95年でさえ、政治の機能不全について批判する声は多かった。ボランティア元年なんて言われたわけだが、言い換えれば、国政が機能しないって諦めなのだった。
それが最大の間違いだったろう。政治に背を向けるのではなく、機能する政治を築き上げる努力に足を向けるべきだった。
サブカルに走るのではなく、カルチャーそのものを塑造するべきだった。リベラルがサブカルでしかなく、カルチャーたりえない現在の政治状況は、あの4mの岸壁の前では全く無効だと思われる。
何でまた『ゴーストワールド』を観てそんなことを思ってるのかといえば、この映画が、2001年のアメリカのサブカル映画だったからだ。
スカーレット・ヨハンソンが、ほとんど今と変わらないルックスをしているので、時間感覚が歪むが、それよりも、2001年のアメリカの若者が誰も携帯を持っていないことに驚いた。日本では、阪神淡路大震災が、一気に携帯を普及させた。
調べたら、この2001年に初代iPodが発売されたのだった。「うわ」と思ってしまう。
ということは、みんなまだMDウォークマンとか聞いてたのか?。Windowsがまだ覇権を握っていたのか?。世界がまだ寝ぼけていたかのように感じられる。
そんな中で、主人公の女の子は、大人の世界の手前で逡巡を繰り返している。映画のコピーにある「つまらない大人たち」「死んだ町」「世界にうまく馴染めない」で止まっているからこそのサブカルだということが痛いほどわかる。
大人たちをつまらないと感じているあなたたちも、大人たちから見ればつまらない子供たち、その辺によくいるやつにすぎない。まさにこいつらこそ、つまらない大人たちの予備役なのだった。
この映画はどこまでもサブカルにすぎない。重要なのはカルチャーの方の成熟度と豊かさで、ある意味では、日米は、その未熟さを共有していると言えるかもしれない。
それは、また、文化の「少年性」と言えるかもしれない。戦後、日米が共有してきたのは文化の少年性だと、川本三郎が書いていたと記憶している。多分、トルーマン・カポーティの解説だったと思う。
二つの大戦を経て、大人のカルチャーが傷ついてしまったことは、日米だけでなく、世界的な事実だろうと思う。いま、『ゴジラ-1.0』が全米でヒットしている背景には、ゴジラというサブカルチャーを再びカルチャーにひも付け直す成功例だったからではないか。
例えば『ワンダーウーマン』の大ヒットが、アメコミというサブカルチャーを、第一次世界大戦というカルチャーの崩壊の出発点に引き戻した発明にあるという見方とこれは共通した視点である。
坂本龍一が、少しおどけて語っていたけれど、彼の学生時代には「30歳以上を信用するな」ってことが、マジでグローバルに標榜されていたのだった。そしてそういう世代の知的アイコンが吉本隆明だった。
また、『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』を見ればわかるように、三島由紀夫と全共闘は反知性主義という点で気脈を通じていた。反知性主義は言い換えれば反カルチャーでありサブカルチャーだった。
つまり、右も左も、大人になることに強い拒絶感を持っていた長い時代が、だんだん終わろうとしていると感じられる。
というのは、大人に反抗的な態度、いわゆる「尖っている」態度がかっこよかった最後の世代がたぶんダウンタウンだと思う。こないだたまたまニューヨークとハイヒール・モモコがしゃべってるYouTubeを見た。ご存知のとおり、ダウンタウンとハイヒールはNSCの一期生なのだけれども、ダウンタウンはその頃から、まったく「へこへこしなかった」そうなのだ。
つまり、彼らはつまらない大人になりたくないありふれた子供ではなく、つまらない大人を力でねじ伏せた子供だった。東京では北野武がそういう存在だったかもしれない。ただ、北野武は、子供というには売れるのが遅かったが。
ダウンタウンが大人になった世界はもう以前の世界ではない。大人はわかってくれないは寝言なのだ。なぜなら、大人をわからせた子供が大人になった世界だから。
ダウンタウンは間違いなく世界を変えた。これは笑芸の世界の話だが、しかし、世界が変えられるという事実を示した後には古い世界の門は閉じてしまったと思うべきだろう。
サブカルは浮遊しながら腐るだろう。サブカルをカルチャーに再び接続すること。そしてカルチャーをねじ伏せること。それ以外に世界の扉を開く術はない。考えてみれば当たり前のことだが、その門の前で怯んでいられたぬるい時代もあったってこと。
キース・ヘリング展
キース・ヘリングに比べれば、バンクシーなんて何なの?。
色々目を瞑ったとしても絵が下手すぎるだろ?。顔出さねえしよ。
キース・ヘリングに比べれば、バスキアですら見劣りするでしょ。
森アーツセンターギャラリーでキース・ヘリング展がやってるの気がついて観に行った。去年の12月初旬からやってたのね。Tシャツとかいいのは売り切れてた。
私は、ユニクロでミッキーマウスのやつは買ってますけどね。でも、正直いちばん欲しかったのは非売品のポップショップ東京のスタッフジャンパー。中村キース・ヘリング美術館の所蔵品だそうです。
キース・ヘリングが生きてたらなぁと強く思います。
80年代のニューヨークは、みんな忘れてるだろうけど、観光客が迂闊に足を踏み入れられる場所じゃなかった。
キース・ヘリングが描かなくても地下鉄には落書きが溢れてた。そして犯罪も。
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だから、アーティストが地下鉄に落書きすることに意味があった。命懸けって言っても嘘じゃなかった。
キース・ヘリングは、
「1980年、人々の日常の一部として見てもらえるようにニューヨークの地下鉄駅構内の空いた広告板に貼られた黒い紙にチョークで描く「サブウェイ・ドローイング」を開始。コミカルでシンプルに描かれたイメージは人々を刺激し、瞬く間にニューヨーカーを魅了。しかし、有名になるにつれてドローイングは剥がされ、売買されるようになったため、1985年にこのプロジェクトは中止されました。」
だそうです。
一点一点の完成度も高い。
ポップアートを受け継いでいるのはもちろんのこと、彼の場合は80年代のNYのリアルが反映している。
アンディー・ウォーホルや草間彌生、オノ・ヨーコは、80年代には金持ちになり過ぎている。ちなみに、ジョン・レノンは1979年に死んでる。
ベトナム戦争で荒廃していくNYが切実だったのはやっぱりキース・ヘリングの世代だったと思います。
ベトナム戦争の荒廃というと、もちろん、兵士として戦っていた若者たちの精神的な苦痛もそうなのだけれど、80年代のNYに与えたベトナム戦争の影響は、むしろ、その背後にあった物流革命が帰結したものが大きかった。
に詳しいのだけれど、NYの沖仲仕たちから仕事を奪ったコンテナ革命が、ベトナム戦争でアジアに広がった。というより日本を潤わした。
ベトナムに大量に物資を送ったコンテナ船がその帰り船に日本の商品を積んでNYに帰ったからだ。
「ジャパン・アズ・NO.1」という神話を日本人が信じたいのは無理もないが、日本製品の品質が一定以上であったのは大前提としても、一方で、この物流コストの激減ってことがなければ、日本製品がアメリカを席巻するまでは行かなかったのだろう。
それまでにすでに組合の政治力で何とか命脈を保っていた港湾労働者たちは、これで完全に息の根を絶たれた。職を失った男たちがNYの街に大量に放たれた。
ベトナム戦争の荒廃とは、ベトナムで戦争に負けただけでなく、その上、その裏で進行していた物流システムの激変で、日本に経済侵攻されていたってことなのであった。
もちろん、そんな大きな構造は当時誰も理解していない。ただ、荒廃していく目の前の現実だけがあった。そして、それをいちばん間近で見ていたのは、やっぱり若者たちだった。
「本作は、社会の無関心に対して警鐘を鳴らすために制作されました。
タイトルはエイズ予防啓発運動団体 ACT UP (AIDS Coalition to Unleash Power)が制作したポスターのキャッチコピーから転用されたもの。
ピンクの三角形は、ナチスの強制収容所で同性愛者の男性につけられたピンクの逆三角形のマークがもとになっており、これを同性愛差別に対する抵抗として上向きの三角形に図案化したものです。
ヘリングはこの図案を作品に取り入れることでLGBTQ+コミュニティを祝福するとともに、偏見により命を落とした人々への追悼を示しました。
当時の「悪を見ず、悪を語らず、悪を聞かない」のレーガン政権に対して、この三角形は「エイズ」の可視化を訴えています。」
だそうです。
この
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なんて、すべてのアンフォルメル作品の中でも傑出していると思う。
こういう立体作品も後の作家に影響を与えていると思える。
美術史的にも、時代を知るためにも、見応えのある展覧会だと思う。
キース・ヘリングの映画がついこないだまでAmazonで見れたのだけど、今は見られなくなってる。
https://www.amazon.co.jp/キース・ヘリング~ストリート・アート・ボーイ~-字幕版-キース・ヘリング/dp/B09FFWNBYD
エイズ問題に関しては、やはり『ダラス・バイヤーズクラブ』がわかりやすい。レーガン政権が、故意に対策を遅らせた。
『エマニエル夫人 4K レストア版』
レディズムvs.フェミニズムって考え方もあると思う。フェミニズムの対義語がマッチョイズムだとしたらダンディズムに対立する概念としてレディズムはある。フェミニズムは、つまり、マッチョイズムなのである。
おそらくリベラリズムが力を失っていく同じ道筋を通ってフェミニズムは腐っていくだろう。
たとえとして「自分探し」なんて言葉を思い浮かべてみるのもよい。その言葉がいまだに何かの価値を持っていると感じている人たちをリベラリストと呼ぶことができる。
つまり、「個人」と「社会」を対立概念としてしか捉えられないので「自分探し」の闇に堕ちてしまう。
社会から切り離された個人などというありえないものを探して人生を棒に振るのがリベラリスト(というか、いわゆる「リベラル」)なのである。
前に、バービー・フェミニズムって戯言を書いたが、パンツを脱いだらソフビのようなペロンとした股間しかない人間がいたとしたら、男女を問わずそれこそまさにフェミニストだろう。
彼らはジェンダーフリーどころかセックスフリーで、生涯を聖僧として暮らすのだ。
『エマニエル夫人』が50周年だそうで、なにかしら驚きを持って観に行った。
FANZAでAVを見まくってる男に、50年前のセンセーションがどのように映るかっていう生体実験に近い。
結果から言うと、50年後の今となっては、ポルノと言える描写は皆無だった。良くも悪くも、むしろ、フランス映画らしい哲学的実験映画に近かった。むしろ、生硬と言ってもいいほどだ。これをポルノとしか捉えられなかった50年前の社会こそ笑いぐさだ。
舞台がタイだということも初めて知った。そしてタイが舞台に選ばれたはっきりとした意図も感じられた。ビジュアルからも明らかに非キリスト教文化圏だとわからなければならなかったからだろう。
思い返してみれば、ウーマンリブと性の解放はセットだったはずではなかったのだろうか。性の解放はどこに行ってしまったのだろうか。
ダウンタウンの松ちゃんに裸で追い回された程度のことを「性加害」って。だいたい何だその「性加害」って言葉は。バカバカしい。
エマニエル夫人は男に追い回されて笑ってる。追い回させてやればいいじゃん?。そうでしょ。
カトリーヌ・ドヌーブや女性作家などフランスの女性100人が、「#Metoo(私も)」運動について、「ピューリタニズム」であり男性への憎しみにあおられたものだとする批判をルモンドに連名で寄稿したのを思い出した。
私たちは男であり、女であり、人間であり、もっと色々言えるが、例えば、黒人だったり、白人だったり、日本人だったり、バイク乗りだったり、撮り鉄だったり、色々なのだ。
「ビューリタニズム」が振り回す正義感は、最後には必ず巨大な暴力を結果する。何度も繰り返してるのにまたやってる。今度はフェミニズムと名乗ってる。放置するとろくなことにならないと警告させていただく。ま、誰も聞かないだろうけどね。