2003年9月28日

最後に吉朝を聴いたのはいつだったなぁと、検索してみたけどヒットしない。ブログに引っ越す前の日記をさかのぼってやっと見つけた。2003年の9月28日に「上燗屋」を聴いていた。
枝雀師が自殺し、米朝師匠が独演会をやめると宣言した後、「これからは吉朝をきけばいいんだ」と私は思ったし、あのころ、吉朝時代到来と誰もが思っていたのではないだろうか?

桂吉朝さん死去 50歳 米朝落語の“継承者”

桂米朝門下の落語家、桂吉朝(かつら・きっちょう、本名・上田浩久=うえだ・ひろひさ)さんが八日午後十一時二十分、心不全のため、兵庫県尼崎市内の病院で亡くなった。まだ五十歳の若さだった。米朝さんゆずりの端正な高座に定評があり、上方落語界を背負ってたつ実力派として活躍が期待されていた。大阪府堺市出身。葬儀は密葬で行い、後日おわかれの会を開く。
 吉朝さんは大阪府立今宮工業高を卒業し、昭和四十九年に米朝さんに入門。着実にうでを上げ、登場人物や情景を細かく分析、描写の確かさは米朝ゆずりといわれた。「蛸芝居」など芝居噺を得意にし、大ネタの「百年目」や「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」などでは独自の色合いを出した。また、狂言文楽との共演や、芝居にも出演するなど多彩な活動を続けていた。
 テレビに出演する機会は少なかったが落語会はいつも満員。米朝さんの信頼は厚く、平成十三年から米朝さんとがっぷり組む二人会「米朝吉朝の会」を大阪・国立文楽劇場で年に一回開催してきた。平成六年「国立演芸場花形演芸大賞」、十三年「芸術選奨文部科学大臣新人賞」など、受賞多数。
 体調を崩して昨年十一月から休養していたが、今年八月に復帰。しかし回復が思わしくなく、十月二十七日、恒例の「米朝吉朝の会」で披露した珍しい噺「弱法師(よろぼし)」が最後の高座となった。

≪壮絶最後の高座 緞帳下りファン涙≫

 すべての体力を振り絞ったような四十分だった。最後の高座となった十月二十七日、大阪・国立文楽劇場米朝吉朝の会」の壮絶さは、長く心に残ることになろう。
 約十カ月間休養して臨んだ初めての本格的な落語会。じりじりしながらこの日を待っていたファンは、いつもよりゆっくりした足取りで登場する吉朝を万雷の拍手で迎えた。
 四角く青白い顔に闘病のあとが見え「体調に波があって、体重が増えてくれんことにはスタミナが…」と話しだすと、会場から励ましの「吉朝!!」の声。すかさず「こっちよりええ声、出さんといて」と返して笑いをとる。二席の予定を、ネタおろしの珍しい「弱法師(よろぼし)」一本に絞った。
 父親にしかられた気の弱い息子が家出してやがて一年。ある日、天王寺の境内で息子の姿を見つけた両親は…という笑いの少ない難しい噺。
 子を思う母と父のやり取り、情景描写なども的確で、春夏秋冬の時の移り行くさまを扇子で顔を隠して物売りの声で表していく。
 一度、湯でのどを湿らせ、半ばからは声も戻って終演。客席をふだんよりゆっくり隅々まで見回し、深々と頭を下げた。ずっと応援し励まし続けてくれたファンに感謝し、別れを告げたようにも思えた。
 緞帳(どんちょう)が下りても拍手がやまない。客席のたくさんの顔には涙があふれていた。「ありがとう、吉朝さん」という声が、あちこちから聞こえてきた。落語会でこうした光景は見たことがない。愛されていたのだ。
 米朝の胸をかりて四年前に始まった「米朝吉朝の会」。その初回に演じた「不動坊」では、冬の寒空に雪が降ってくる確かな描写に客席で「ブルっ」ときた。人気ネタ「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」は九十分の大作に仕上げながら少しも飽きさせず、抜群のギャグセンスを発揮。大作「百年目」では、大旦那の貫禄(かんろく)を十分に出してみせた。
 数ある米朝一門のなかでも、端正で品格のある米朝落語を一番確かに受け継いでいた。吉朝を目標にしている仲間も多い。将来の上方落語界を託せる男が斃(たお)れてしまった。
(金森三夫)