ジョン・エヴァレット・ミレイ展、コッポラの胡蝶の夢

knockeye2008-08-31

実は昨日たまたま午前5時に目がさめたので、そのまま渋谷まで出かけようかと思った。
雨は気にならない。むしろ、美術館の客足が鈍ると思えば望ましい。が、よくみると昨日が初日。初日の朝から美術館に並ぶって。
別に問題ないのだけれど、雨も激しいし。
そんなこんなで昨日は無為に過ごしてしまった。厚木のサルバトーレクオモでdocというピザを食べたくらい。あそこのピザはやはり旨い。
駅ビルの渡り廊下で、いつのまにか降りだした豪雨に気づいた。馬の背を分ける雨。渡り廊下のアクリルの天井がそんな比喩を思い出させた。このころ巷に流行るらしいゲリラ豪雨というやつか。海老名につくころにはもうやみ始めていた。
で、改めて今日は渋谷にでかけた。
ひさしぶりのBunkamuraミュージアムは、「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」。
かつて、兵庫県立美術館で開催された「テートギャラリー展」で、多分これが生涯の見納めだろうと覚悟していた「オフィーリア」にあっさり再会できてしまうのは複雑な心境でもある。大恋愛の末に別れた女と、中年になって出くわす面映さみたいな。
今回はジョン・エヴァレット・ミレイ個人の回顧展である。画業全体を俯瞰してみると、名画「オフィーリア」には、まだまだ続きがあった。別れた女は中年になってますますいい女だったのである。
同じころに描かれた「マリアナ」や「聖アグネス祭前夜」などの絵をみると、「オフィーリア」のころの絵には、セックスと死が色濃く映し出されているように思える。
20年ほど後に妻を描いた「エフィー・ミレイ」と見比べてもらえば、わたしのいいたいことが分かって頂けるはずだ。成功を収めた画家の奥さんが、ちょっと鹿爪らしい顔をしながら、噴出しそうになるのを我慢しているような微妙な表情は、性の強い要求に悩まされるころ(それは同時に死を身近に感じるころでもある)には描けないものだろう。
もちろんジョン・エヴァレット・ミレイ以外の画家にこの表情が描けるかといえば、それはまた別の話。
今回、多くの女性の肖像画が展示されているが、「ハートは切り札」のトランプをする三姉妹の表情。左に明るい躑躅の木、右に暗い中国の屏風を配し、三姉妹の視線をリズミカルにずらしていく構成も見事だけれど、表情の中に個性を捉えられることが、「オフィーリア」の抒情や、歴史に題材をとった「エステル」のドラマティックさにはない微妙さなのである。
「きらきらした瞳<Bright Eyes>」の凛とした美しさは、「オフィーリア」のか弱さの対極を感じさせる。
宮崎駿が「オフィーリア」を見て、「自分が目指しているものをとっくに達成したひとがいる」と、「崖の上のポニョ」では全編手描きに回帰したといわれているが、ジョン・エヴァレット・ミレイ自身も「オフィーリア」で到達したあの緻密を捨てたのである。
最晩年の風景画に漂う死の気配は「オフィーリア」のころのそれとは随分違っている。蜘蛛の巣にたまる朝露や暮れなずむ空にかかる月は、「オフィーリア」の画家が獲得した豊かさだと私は思う。
夏休みの最終日というのに、(あるいは、そのせいなのか)案外に混んでいなかった。エッシャー展の混み具合を思うと嘘のようである。「オフィーリア」が来ているんですよ、みなさん!
まっすぐ帰宅してもよかったけれど、渋谷に来たついでなので映画館をのぞいてみた。すると、フランシス・フォード・コッポラの十年ぶりの新作「コッポラの胡蝶の夢」が、これまた昨日から公開で、しかも、うまい具合に開演三十分前。見ていくことにした。
物語は「ファウスト」を思わせる。こちらのドクターは言語学者で、言語の起源を研究している。「はじめに言葉ありき」というキリスト教徒と違って、わたしたち仏教徒は意識の下に、さらに末那識、阿頼耶識の二つの識を置いている。その意味で言語の起源にさほど興味はないが、この映画で使われている古代言語は全部本物か、本物と推定できるものだそうだ。
秦の始皇帝からソビエトの潜水艦クルーまで、全員英語を話すハリウッド映画をすんなり受け入れている自分にいまさら驚きもする。
人生を生き直す事はささやかな望みだろうか。生き直さずに実りだけ手に入れたいと願うこともできるからだ。しかし、別の人生が選べたはずだと思うのは、成功者の望みかもしれない。
観おえて、映画館のカフェでサービスのコーヒーを飲んでいると、置いてあるモニターから「ニホンノミナサン・・・」と、コッポラがしゃべりだしたので面食らった。
コッポラがハリウッドシステムを離れて、パーソナルな映画を作りたいという思いが実感として伝わった。