「奇跡」、パウル・クレー、名和晃平

knockeye2011-06-14

 是枝裕和監督の「奇跡」を観てきた。
 小学五、六年のころ、世界にむけて開かれていると思っていた扉は、どこへ消えちゃったのかなぁと思う。
 確か、そこをくぐってきたはずだと思うのだけれど。

 河辺の歌


私は河辺によこたわる
(ふたたび私は帰つて来た)
かつていくどもしたこのポーズを
肩にさやる雑草よ
昔なじみの 意味深長な
とわらうなら
多分お前はまちがつてゐる
永い不在の歳月の後に
私は再び帰つて来た
ちよつとも傷けられも
また豊富にもされないで


悔恨にずつと遠く
ザハザハと河は流れる
私に残つた時間の本性!
孤独の正確さ
その精密な計算で
さかんな陽の中に
はやも自身をほろぼし始める
朝顔の一輪を
私はみつける


かうして此処にね転ぶと
雲の去来の何とをかしい程だ
私の空をとり囲み
それぞれに天体の名前をもつて
山々のあいもかわらぬ戯れよ
噴泉の怠惰のやうな
翼をとっくに私も見捨てはした
けれど少年時の
飛行の夢に
私は決して見捨てられは
しなかつたのだ


伊東静雄「わがひとに与ふる哀歌」より)

 竹橋の美術館で、パウル・クレーも観てきた。
 最近、変な時間帯に眠って、変な時間帯に起きてしまう。この日(日曜日)は、心ならずも早起きしてしまって、美術館の開館一時間も前に訪ねてしまい、チケットを買う行列の、先頭になってしまった。
 ただ、これからこられる方のために申し上げておくと、そんなに混んでない。上村松園のときのほうが混んだくらい。
 クレーは、観るごとにどんどん好きになる。
 線が自在で、<入り江>という絵などは、<入り江>というタイトルの、現代音楽の楽譜だといわれても信じてしまうかもしれない。
 今回の展覧会で、いちばんびっくりしてしまったのは、あるものは上下ふたつに、別のものはたてよこ三つに、という風に裁断された絵がいっぱい展示されていたこと。
 あまりのことに、わたくし、学芸員さんに、「これは、クレー自身が切ったんですか?それとも・・・」みたいなことを尋ねてしまった。
 というのも、クレーの絵は、ナチスの手で多数が焼き捨てられた史実があるので。
 しかし、訊くまでもなく、クレー自身が切って、別々の作品にしたのだった。
 つながったままでも十分いい絵だと思うのだけれど、ちょっとやられたという気がした。「自分の絵を切るか」と。
 このクレーの強靱さに比べると、ヒトラーなんて屁みたいなもんだな。と、実感としてわかる、ただのいじめっこみたいなもんだなと。
 そのあと、東京都現代美術館名和晃平も観た。
 ビーズの鹿のなかに、本物(かどうかしらないけど)の鹿がはいってた。前は、入ってなかった気がする。
 常設展に新しく収蔵された、泉太郎というひとの<butter>という作品が、いちばんインパクトがあった。笑いがこらえられなかった。
 ふと足を停めさせられたのが、大竹伸朗の<ゴミ男>。
 それで、浮かんだ考えは、こないだ、ジョゼフ・コーネルの時に、ポップアートをはじめ、現代の芸術家は、イメージを作る側にまわることに、拒絶反応があるか、少なくとも、魅力を感じなくなっていて、イメージを消費することの方に、美を見出そうとしているのではないかと書いたけれど、いまの芸術家たちは、それも通り越して、イメージを廃棄しようとしているのかもしれない。
 と、まあ、そんなことを思わせる作品だった。