『茶と美』、『翼よ、北に』

knockeye2012-02-01

 先月、以下2冊の本を読んだ。

茶と美 (講談社学術文庫)

茶と美 (講談社学術文庫)

翼よ、北に

翼よ、北に

 『茶と美』の方は、柳宗悦展を見たとき買ったもの。
 アン・モロー・リンドバーグの方は、須賀敦子の『遠い朝の本たち』でふれられている「さよなら」の章が読みたいと思って。
 読む前に予想していたより、日本についての文章が多かった。
 なかでも、夫君のチャールズ・リンドバーグが操縦する単葉機に、通信クルーとして乗り込んでいるアンの無線機に、根室からの第一信が飛び込んでくるところは思わず笑ってしまった。なんて面白いんだろう、日本人は。
 この調査飛行の行われた、1931年という動かしがたい現代史の一点を思うと、このときのリンドバーグ夫妻と日本人たちの出会いは、やりきれないほど切ない。
 その後、日本は、おそらく史上最悪の汚辱にまみれていくが、また、リンドバーグ夫妻も、愛息が誘拐され殺害される不幸を経験する。
 調査飛行から4年を経て、アン・モロー・リンドバーグが、このデビュー作に取り組んだ思いについて、私たち日本人も、ようやく分かち合えるのではないか。麻酔なしで自分たちの傷口を見つめられるころなのではないかと思う。

 「サヨナラ」を文字通りに訳すと「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。

につづく文章は、わたしたち日本人の別れの言葉について書かれているのだけれど、もちろん、それはアン自身の別離について、おそらく日夜思い続けたであろう別離について語っている。
 意外でもあり、示唆的でもあるのは、アンがお茶の手ほどきをうけて、茶道にわざわざ一章を設けていることだ。いわば‘茶ガール’の先駆者だろうか。
 このほぼ10年後に来日するシャルロット・ペリアンとお茶との関係については去年書いた。来日するまで、シャルロット・ペリアンが日本について知っていることといえば、坂倉準三からもらった岡倉天心の『茶の本』だけだったということだ。また、彼女は晩年にパリのユネスコ庭園内にお茶室を設計している。
 迷彩服の連中が拡声器で「ニホン、ニホン」とがなり立てるのを尻目に、ホンモノの伝統はこうして静かに伝播する。当然じゃないだろうか。
 あのとき書かなかったけれど、柳宗理がシャルロット・ペリアンについて書いた文章で印象的だったところを紹介したい。

・・・展覧会の前、三日二晩というもの彼女は全く寝なかった。私達若いアシスタントもフラフラになったが、何にも分からない職人たちは徹夜が重なるとついにストライキを起こしてしまった。
 彼女はそれでも眼に涙を浮かべてしゃにむに頑張った。
 ついに職人たちも見ていられなくなり引きづられて夜を明かしてしまったというエピソードもある。
 このような彼女のファイトを示すエピソードとして、彼女がどうやってコルビュジュエのアトリエに入ったか、話してくれたことがある。

 卒業後コルビュジュエの著書に感動して、アトリエを訪ねたペリアンだったが、女性を採用したことがなかったコルビュジュエは、彼女の再三の申し出をにべもなく断り続けた。
 やがて彼女自身の展覧会を訪ねてきたコルビュジュエに頼んでようやく入所の許可を得たが、

もちろん、ただである。しかし、彼女が入所して図面を描き始めると、いつもノンといって消しゴムで消してしまった。彼女は失望し、幾度辞めようと思ったか分からないという。しかし、彼女の最後までの頑張りこそが、コルビュジュエの重要なアシスタントとならしめたのである。

 また、1956年に書かれた「日本における身振りの危機」というペリアンの文章は、予言的であるというだけでなく、初来日のとき、柳宗理をともなって、メジャー片手に日本中を駆け巡った成果としての、その理解の深さにあらためて感嘆する。
 じつは、映画「月光ノ仮面」、「百合子、ダスヴィダーニャ」、「幕末太陽傳」と、登場人物が着物を着ている映画を立て続けに見て、家屋と着物と身振りの密接な関係について、ちょっと考えさせられたことであった。
 柳宗悦の『茶と美』は、すこし文章が堅苦しい感じもあるけれど、茶を美の普遍的な価値観で捉え直した本質的な試みであったと思う。
 戸田勝久は解説にこう書いている。
茶の湯は柳から蒙った大恩義を忘れてはならない。」